胡蝶舞う

序章


今宵の満月に誘われるように、わたくしは、筝の琴(そうのこと)を奏でていた。

「想夫恋」・・・恋しい夫を想うというこの曲を、わたくしも好んで、幾たび、ここでこうして

奏でたことか。だが、もう、これが最後かもしれない。

いよいよ、わたくしも、明日より、建春門院滋子様の許へ出仕することになったのである。

女院様は、京極局と呼ばれるわたくしの母君の仕える後白河法皇様のお后様。

もともとは、法皇様の姉上の上西門院様の女房としてお側にお仕えしていたところを、法皇様に

見初められたほどの美しい方と聞いている。

昔から、母君とも仲がよく、恐れ多くも、女院様のたっての願いでわたくしの、宮仕えが決まったのであった。

女院様のお産みした憲仁親王が高倉天皇としてご即位されまもなく平清盛様の次女徳子様が入内されたのを機に、

法皇様の御所である法住寺殿へとお移りになられた。

法皇様の南殿の北側、七条殿と呼ばれる北殿が女院様の御所であった。

そこでぜひわたくしを召したいとおっしゃられたのである。

法住寺殿の御所には、母君もお仕えしている。

母君が法皇様の第一の女房と誰もが認める方なら、父上、藤原成親も法皇の第一の寵臣として 誉れ高い方。

この二人が結ばれると、母君はあっさりと宮中を退出して、父上の中御門烏丸のお屋敷で 兄の生さぬ仲の成経を

はじめ、わたくし達兄弟姉妹を育ててきたのである。

それが、ある朝、突然、わたくしにも黙ったまま、再び法皇様の許へ出仕なさったのだった。

母君に会いたい、その気持ちが、わたくしに御所への出仕を決意させた動機のひとつでもあった。

「姫様・・・」

筝の音の合間に、最近、わたくし付きになった侍女の桔梗が、おずおずとわたくしの前に現れた。

この美しい娘は、わたくしの叔母君の紹介でわたくしの側で働くようになったのである。

叔母君というのは、わたくしの父上の妹君で、今をときめく平氏の嫡流の重盛卿の北の方にあたる方。

桔梗は叔母君には生さぬ仲の長男、維盛様の乳母の親類にあたる娘で、わけあって幼い頃、乳母が引き取った

とかで、維盛様以下兄弟とも仲睦まじく育ってきたという恵まれた娘だった。

わたくしより二つ三つばかり年下である。

宮中には、父上成親と京極局の養女、つまりわたくしの妹という扱いで、女童として上がることになっていた。

わたくしとて本来は、侍女をつれて宮仕えできるような立場では ないけれど、女院様の特別なお計らいで、

一緒に上がれるようになったのだった。

「何です?桔梗」

「あの、若様がいらしてるのです」

「若様?」

「はい」

「どちらの若様?」

そう、わたくしはたずねながらも、心当たりがないわけでもなく、 思わず声がうわずってしまった。

桔梗が若様と呼ぶとしたら、ただ一人、あの方のみ・・・

「維盛様にございます」

やはり、維盛様だったとは。

「未熟な私に、いろいろと宮中の作法を教えに来てくださったのです。 私の失敗は姫様の失敗になるのだと。

姫様に恥をかかせるようなことはしてはいけないと、 きつく言われておりました」

桔梗は、必死に、弁解していたが、わたくしの耳には入ってこなかった。

幼い頃、たった一度会っただけで、ずっと恋焦がれてきたあの方が、すぐそばにいる・・・?

今まで、こうして、あの方を想ってきたので、夢でもみているのだろうか。

それとも、月の満ちたる夜がみせる、幻なのか。

「若様は、姫様に一目お会いしたいと・・・」

あまりのことに、わたくしは、なんと答えたらいいのかわからなかった。

すると、どこからか、笛の調べが聞こえてきた。

なんて美しい笛の音色なのだろうか。これほどの美しい音色を聞いたことがなかった。

「若様の笛」

桔梗が、小さくつぶやいた。

これが、あの方が奏でる笛の調べ・・・ わたくしは、目を閉じうっとり聴き入っていた。

「姫様、合奏遊ばせ、さあ・・・」

桔梗が、筝をすすめる。

わたくしは、桔梗にうながされるまま筝を弾きはじめていた。

維盛様の笛の調べを全身で感じながら、わたくしも、負けまいと夢中で筝の琴で追っていく。

笛の音を聴きながら、筝を弾きながらわたくしの心は、ずっと昔に戻っていくのであった・・・。


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