巻一
ずうっと昔、このお屋敷で「光君」と呼ばれたお方がいらっしゃった。わたくしがその光君に初めて会ったのは、まだ7つの幼い頃、桜の花の盛りの季節だった。
母君につれられて、桜に誘われるように庭に出てみると、 そこには先客がいらっしゃった。
今をときめく平氏の清盛様の嫡男重盛様の北の方で、わたくしの父上藤原成親の 妹、そう、わたくしにとっては
叔母君にあたる方である。
重盛様の第一の妻として、六波羅のはずれ小松谷のお屋敷に嫁がれたのだが、 母君とは、本当の姉妹のように
仲がよく、 わたくしも物心ついた頃よりずいぶんかわいがってもらっていた。
「やはりこちらでしたか」
母君の言葉に、ゆっくりと振り向かれて、
「はい、ここの桜は、わたくしにとっては都一ですから」
と、叔母君は微笑まれた。
風流というより見栄っ張りな父上の趣味で、このお屋敷もお庭も、京の中でも けして恥ずかしくないものである。
しばらく母君と叔母君は談笑しているので、退屈だったわたくしは、ぼんやりと 桜をながめていた。
すると、まだ元服前の水干姿のかわいらしい少年が走ってこちらにやってきた。
「母君、つかまえました」
と、少年は叔母君の前に、合わせた両手を差し出した。
「まあ、なんでしょう」
叔母君は、少年の手の中をのぞきこもうとなさった。
少年は、いたずらっぽく笑いながら、そっと、両手を開いていく。
すると、蝶がすーっと出てきたかと思うと ひらひら飛んでいた。
「あ、ちょうちょ」
わたくしは思わず声をあげ、 2.3歩、蝶を追ったが、小さかったわたくしよりはるか頭上を 飛んでいく
蝶をとらえられるわけはなく、すぐに あきらめた。
そして、振り返ると、首を少し傾けて不思議そうにこちらを見ている少年と目が合 ってしまった。
わたくしは、思わず、母君の後ろに隠れた。
「まあ、まあ、優様を驚かせてしまったようね」
叔母君は、優しく微笑んでいる。
「優姫、隠れていないで出てらっしゃい」
母君は、わたくしを、少年の前に引き出した。
わたくしは、少年があまりにも、かわいらしいので、気後れしてしまったのである。
「若君を優様にご紹介いたしますわ」
「わたし、知ってます」
わたくしは、お付きの女房達が、叔母君とその若君の うわさをしていたのを聞くともなしに聞いていたことを、急に
思い出していた。
重盛様には、亡き先妻との間にご長男、また、脇腹のご子息がいて、 その中に、叔母君は正妻として
嫁いでいったのである。
「光君さまでしょ」
わたくしが得意になって申し上げると、少年は、ぱっと顔を赤らめて、 今度は少年が叔母君の後ろへすっと隠れた。
母君と叔母君はしばらくあっけにとられていたかと思うと、
「優姫ったら、そのようなこと、誰から聞いたのでしょう」
と、母がたしなめるように言った。
「姉君、素敵ではありませんか。若君が光君で、優様が紫の上というわけですわ」
叔母君は相変わらず優しくおっしゃった。
そして、叔母君と母君は顔を見合わせて微笑した。
その優美な雰囲気を打ち消すかのように、
「五代と申します」
そう言い放った少年の顔からはいつのまにか、さっきまでの恥ずかしそうな表情は消えていた。
少年とはいえ、さすがに武士の血筋を引くお方・・・でも、当時のわたくしには、 そんなこと知る由はなかったのだけど。
五代というのは、維盛様の、幼少の頃の御名前。元服した時に、平氏の御名の「盛」の字と、 長男を意味する
「維」の字が与えられて、「維盛」という平家一立派な名前がつけられたのである。
「優子です」
わたくしも、凛として答える。
「優様にも蝶をとって差し上げましょう」
「ほんと、うれしい」
維盛様は、叔母君の方をご覧になった。
叔母君は、優しくうなずかれた。
「さあ、こっち」
維盛様は、わたくしの手を引き、しっかりと 手をつないだまま、走り出した。
わたくしも夢中で維盛様の後について行ったのであった・・・。
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