巻二
わたくしが、「光君」の意味を知るのは、それから何年かたってからである。手習いのお手本にと 「源氏物語」をすすめられ、読みはじめてあっと驚いた。
玉のように美しく輝く帝の御子様(みこさま)が、「光る君」と呼ばれていたのである。
なるほど、あの春の日にお会いしたあのお方も、たいそう美しい少年だった。
女房達が「光君」と呼んでいたのもうなづける。
そうとは、知らずに、面と向かって「光君」とお呼びしたわたくしの幼さ。
今更ながら、 消え入りたい心地がした。
そして何もかもご存知でいられながら、わたくしを、 「紫の上」と称してくださった叔母君のお優しさ。
恥ずかしいような、それでいて、ちょっぴり 甘美な淡い春の日の思い出は、わたくしにとって忘れられないものと
なっていた。
わたくしの「光君」は、あれからまもなく元服をなさったとかで、もう、このお屋敷に叔母君の お供をなさることは
なくなっていた。
叔母君と重盛様との間にも維盛様の弟君にあたる4人の男君がいらして、その幼い弟君が 時々お供をする
くらいである。
今をときめく平清盛様の長男重盛様、その長男維盛様、平家の嫡流の あのお方が、たった一度蝶を共に追いかけた
幼き春の日の想い出の中の少女を覚えていてくれるはずも なかろう。
わたくしもあの想い出をそっと胸にしまっておく。
そして、「源氏物語」の手習いをしながら、わたくしも光君への憧れ出る想いを 物語の君に託していた。
わたくしが「源氏物語」を好んでいるのを知った父上は、わたくしの為に、 ある日、思いがけないお客様を招待してくれた。
その方は、世尊寺伊行様で、「源氏物語」の研究をなさっている方。
世尊寺家は代々、書家の家系で 伊行様も、あちらこちらの公家の家からご子息の書道の師としてお声がかかるほどの
ご立派な方だった。
そして、当代一の筝の名手として都中の憧れの的、大神家の夕霧様との間には、 ひとり娘もいらっしゃった。
ご多忙な伊行様のかわりに、たずねていらしたのは夕霧様と愛娘の綾子様だった。
伊行様直筆の「源氏物語」をわたくしにくださるために。
夕霧様はこの方のどこに音楽を奏でるお力があるのだろうかと思わせるような はかなげなお方であった。
綾子様は、父母の芸の心得と愛情を一心に受けてすくすくと 育ったのだろう。
明るく朗らかで、それでいてつつましい方、 わたくしより、少し年が上であるが、 とても大人びて感じられた。
夕霧様は、伊行様との前に和歌の大家藤原俊成様と結婚されていた時期もあり、俊成様の娘である 母君とは、
まったくの他人という間柄でもなく、夕霧様の数多い 筝の弟子の一人でもあり、誰とでも打ち解けるきさくな
母君は 夕霧様とも親しくしていた。
特に綾子様の上品さは母君のお気に入りだった。
「綾子様は、うちの優子とはいくつも違わないのに、もう、『源氏物語』は ひととおり習得なさっているのですね」
「はい。物心ついた頃より、いつも周りには書物が積んでありましたので」
「『源氏物語』の他に、どんなものを読まれるのですか?」
「やはり父上の研究している『在五中将日記』に興味があります」
「ざいごちゅうじょうにっき・・・」
わたくしには、聞きなれない言葉で、思わず問い返していた。
「はい。『伊勢物語』とも言われているお話ですわ」
ますます、わたくしにはわからないことだった。
それから、母君の提案で、わたくしは 自分の部屋に綾子様をお連れした。
いつのまにか、わたくしも、この方を姉のようにお慕いしていたのである。
「『伊勢物語』も恋のお話なのですよ」
綾子様が、意味ありげなまなざしでおっしゃった。
「光君のような御方が登場するのですか?」
「優姫様は、光君がお好きなのですね」
綾子様は、いたずらっぽくおっしゃった。
わたくしは、はっとして、顔が赤らむような気がした。
光君が物語の君のことだとは わかっていても、胸の内に秘めた方のことをおっしゃられているような錯覚に陥ったのだ。
「綾子様も、お好きなんでしょ」
「わたくしは、宮仕えには憧れてますが、いたずらに恋などするまいと思っておりますわ」
綾子様は冗談とも本気ともつかない口調でおっしゃった。
わたくしは、なぜか、綾子様の言葉を、後々までも忘れることはなかったのであった・・・。
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