胡蝶舞う

巻三


わたくしが11歳になった頃、ある日、突然の悲しい別れが訪れた。

大好きだったわたくしの母君が、父上のこの中御門烏丸の屋敷から出て行かれたのである。

行き先は、あの、後白河法皇様の許だという。

母君はもともと上臈女房として宮中の法皇様に出仕していたのだが、父上との結婚で下がっていたのを、

急にまた、 法皇様の御所に召されたのだった。

わたくしも、もう11歳なのだから、母君との別れくらいで 悲しんでもいられない。

それはじゅうぶんわかっていてはいても、わたくしは、憂鬱な気持ちで 部屋にこもっていたのである。

それは、父上が新しい女性を、北の対にまねかれた故だった。

詳しいことはわからないながらも、元々、法皇様に仕えていた女房らしい。

しかも、夏には、わたくしにとって、妹か弟となられる方がお生まれになる予定だとか。

わたくしは、父上の行動が信じられなかったのである。

そう、母君との別れの悲しみよりも、父上への不信感が私を暗い気持ちにさせていたのかもしれない。

いっそうわたくしは、部屋にこもりがちとなり、 そして、来る日も来る日も筝を弾いてた。

「源氏物語」をわたくしに届けてくださって以来、姉のようにお慕いしている綾子様に、時折、 筝を習っていたのである。

心配してかけつけてくださったのは、あのお優しい小松の叔母君だった。

叔母君も母君の事を実の姉のように 慕っていたから、わたくしの悲しみをよくわかってくださった。

そして、実の兄の わたくしの父上のあまりのなさりように、憤慨なさっていた。

「優様。わたくしは、あなたが生まれた時からそばにいましたから、優様の姉とも母とも思って おります。

このたびの、兄上のなさりようには、わたくしも、憤りを感じていますわ。 優様、優様さえよければ、

優様を六波羅の小松のお屋敷にお迎えしたいと思っております」

叔母君はいつものお優しい口調でおっしゃった。

「わたくしを、六波羅へ?」

わたくしは、驚いた。六波羅といえば、平家一族のお屋敷がある所、まして、小松のお屋敷とは 叔母君の

お住まいになっていらっしゃる重盛様のお屋敷ではないか。

「わたくしのような者が、平家のお屋敷など・・・」

「武士の屋敷には来れませぬか?」

「いえ、そんな。反対にございます。貴族の娘とて、わたくしなど、物の数にも入らぬ身。 今をときめく平家のお屋敷に

参ることなど、許されませんわ」

「正式に、優様を維盛様の北の方として、お招きしたいと思っております」

叔母君は、どこまでもお優しい、いつもの調子でおっしゃった。

わたくしが維盛様の北の方・・・はじめは、 よく意味がわからなかった。

あまりにも 意外な事で、維盛様がわたくしの 「光君」であるとすぐに結びつかなかったのである。

「光君」

思わず、そうつぶやいてしまったわたくしの言葉を、叔母君は聞き漏らさなかった。

「そうですとも。光君ですわ。あの日、わたくし、申し上げましたでしょ。優様が紫の上だと。 ずっと、楽しみに

していたのですよ」

叔母君は、嬉々としておっしゃった。

あの日、すでに、叔母君は、維盛様とわたくしの結婚をのぞんで楽しみにしていたというのであろうか。

生さぬ仲の長男、まぎれもない平家の嫡流である維盛様の相手に、ご自分の姪であるわたくしを 選んでいたというのか。

「あのお方は、わたくしをご存知なのですか?」

「平家の子息は、親の決めた方を迎え入れます。優様を重盛様にお薦めしたのはわたくしですが、 重盛様も、優様を

気に入った様子。藤原成親卿の娘とあれば、清盛様も不服はありますまい。 優様さえよければ、正式にこの縁、

すすめたいと思っているのです」

このとき、はじめて、わたくしに、あの方のお気持ちを知りたいという野心が芽生えてきた。

あの方に会えるのなら、小松のお屋敷に 行きたいと思った。

お屋敷に行って、あの方にお会いして、あの方が、わたくしの想い出の中の光君の ままでいてくださったら、

わたくしは、あの方についていこう、変わられてしまっていたら、その時は、 身を引こう。

・・・だが、叔母君の長年の願いも、わたくしの密かなる野心も表にならぬまま、 この後、突然、わたくしの

御所仕えが決まったのだった・・・。


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