胡蝶舞う

巻四


維盛様の笛とわたくしの筝の琴の合奏が終った時、わたくしは、ひどく疲れ果てていた。

蝶を追いかける少年に遅れないようにと必死についていったあの日。 あの時と同じように笛の主はわたくしを導いていた。

この方がまぎれもなくあの幼き日に出会った少年であることを、わたくしは確信していた。

「優子様」

お優しい声があたりを包む。

わたくしは、お声に導かれるままに、面(おもて)をあげて、はっとした。

薄萌黄色に薄紅梅の色目襲ねである若楓の 単衣に、夏らしい涼しげなあさぎの色の 狩衣をすっきり着こなした

若公達が目の前に立っていらっしゃった。

冴え冴えとした月影に照らされてなんという清んだ美しさ。

想像をはるかに超えたすぐれたご容姿のこの方が本当に維盛様? わたくしが、ずっと、想い憧れていたあの方だとは・・・

「優子様、お久しぶりでございます」

「わたくしを、覚えていてくださったのですか」

「これは、異なことをおっしゃられる。優子様は、わたしをお忘れですか?」

「いえ、わたくしもはっきりと覚えています」

「では、優様は、わたしをまだ光君とおっしゃいますか?」

「お恥ずかしゅうございます」

わたくしは、袖で顔をおおって打ち伏した。

「わたしは、物語の源氏の君のようにあちらこちらの女君に なびくようなことはしませんよ。それどころか、どなたからも

相手にはされまい」

維盛様ほどの美しい殿方の目に留まってなびかぬ女性などいるのだろうか。

しかも今をときめく平家の嫡流の御身分、御自身もちゃんとわきまえた上で 謙遜なさっていらっしゃる。

まして笑いながらおっしゃっているそのご様子から、わたくしをからかっておいでだと わかっているものの、

わたくしは消え入りたい心地で、

「お赦しください。 物の道理をわきまえぬままの幼き日の発言にございます。 でも、お聞きくださいまし、維盛様。

優子の 申し上げました意味は維盛様のお美しさが 光君のようだとの意。維盛様のお噂などどうしてわたくしが

存じ上げておりましょう。でも、維盛様のお美しさなら幼なき優子にも よくわかりました」

と申し上げた。

「いや、優姫の可憐な美しさこそ。なるほど、紫の上とは母上も よう言われた。幼き姫君であられた紫の上を

わがものといつくしみはぐくまれて きた源氏の君がうらやましい」

「まあ、そのようなこと」

「あの幼き日のことはけして忘れてはいません。優姫の お手のぬくもりも、この手ではっきりと覚えているのですよ」

そういって、わたくしの手をおとりになる。そうすると、不思議と、 わたくしも、あの春の日の維盛様のお手の温かさが

思い出されるようだった。

「あなたは、わたしの許へは来てくれないようですね。女院さまの許へ行ってしまわれる」

「そんな・・・」

わたくしを小松のお屋敷へという思いもかけない叔母君からの申し出に、心は決まっていたものの、 その直後、

女院様からの御所へあがるよう正式な申し出を断れぬまま、明日には 御所行きが決まっていた。

「御所にはすばらしい方々の出入りがたくさんございます。だが、誰にもあなたを渡したくない」

そういって、維盛様は、わたくしを抱く手に力をこめられた。

「維盛様・・・」

「ずっと、昔、たった一度、一緒に蝶を追いかけただけの姫君のことが なぜか、ずっと忘れられなかったのです。

もう一度会いたいと思いながらも、 かなわぬまま、いたずらに日々をすごしていました。でも、いつか、必ず

姫君をお迎えしたいと思っていました。母上から縁談をことわられたこと、そして、 姫君出仕のことを聞かされました。

そして、いてもたってもいられず、こうして、桔梗を頼りに、こちらへ来てしまったのです」

耳元でささやく維盛様の御言葉に、わたくしは、夢ともうつつとも思えなかった。

男君とふたりこうしているのでさえ、 恥ずかしさでこのまま消え入りたい 心地なのに、まして、相手が、

ずっと恋焦がれていた維盛様。でも心の丈は伝えたい。

「優子も、維盛様と小松の蝶を追いかけてみたかった」

わたくしは、やっとの思いで、素直に心を打ち明けた。

「ああ、このまま姫を小松へお連れできたら・・・。いつか、必ず、 姫を迎えに行こう。それまで、御所でも

姫をお守りしております」

物語の中では誰も教えてくれなかった男君の 腕(かいな)の力強さ。この美しい方のどこにそのような力があるのだろうか。

わたくしは、もう、すべてを維盛様に委ねるほかなかった。だんだん意識が遠のいていくなかで、不思議と

維盛様の愛は確かなものと信じることができたのだから。

そしてその夜、わたくしは、夢の中であの春の日に戻って、維盛様と、共に手を取り合いながら、 思い切り蝶を

追いかけて走り回っていた。

わたくしだけを愛していこうと誓ってくださったわたくしの光君。

わたくしも、これから先ずっと、どんなことがあっても、このお方の おそばで生きていこう、そう、決めていた。

わたくしをお優しく抱きしめて隣で眠っていらっしゃる維盛様の夏の短き夜の夢の中でも、 わたくしたちは、

手を取り合って、蝶を追っているのだろうか・・・。


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