巻五
長い長い一日が静かに過ぎようとしていた。朝、まだ夏の短か夜も明けぬ前に、維盛様をお見送りした。
維盛様の住む小松のお屋敷で育った桔梗が朝の用意をぬかりなく調えて差し上げた。
もしかして、叔母君は、今日のこの時のために、桔梗をわたくしに託されたのかと思うくらい、 桔梗は
万事心得ているのが、たのもしかった。
そして、父上につれられて、法住寺殿御所へと向かった。
御所でわたくしを待っていたくださったのは、健御前殿と呼ばれている女院様の 信頼厚い女房だった。
この方は、俊成卿の娘であり、 つまり、わたくしの母君京極局とは、母親は違うが姉妹にあたる。
母君とは年の離れた、わたくしとは年の近いこの叔母君健御前殿は、母君の仲立ちで 幼い頃より
女院様のもとに上がり育ったという幸せな方だった。
わたくしも、幾度かお会いしたことがあるので、心強く思った。
健御前殿がわたくしを女院様にひきあわせてくださった。
その後、今度は父上につれられて、恐れ多くも、法皇様に挨拶にお伺いした。
本来なら新参女房が出仕当日に法皇様にお目通りなんて難しいのだが、そこは父母共に法皇様の第一の側近と
いうことで 法皇様直々のお召であった。
そこで、はじめて、法皇様のそばに控える母君に会った。
しばらくぶりで会った母君は、里にいた時とは別人のように若返ってみえた。
御所第一の上臈女房と誰もが認める母君、さすがに威厳がある。わたくしには、遠い人のように感じた。
「娘の、新大納言君にございます。本日より、建春門院様の許に出仕いたしました」
父上が、恭しく法皇様に奏上した。
「新大納言君でございます。よろしくお願いいたします」
わたくしも、父上に何度も教えられたとおり、手落ちないよう申しあげた。
「ほお、これは、美しい姫だ。さすがは、成親と京極の愛娘、これほどの 姫君を秘蔵していたとは。成親、なぜ後宮へ
入れようとはしない。 武士の娘でさえ、後宮へ上がる時代なのに」
「はあ・・・」
法皇様の皮肉めいた御言葉に、父は、ただひれ伏すばかりだった。
わたくしも、法皇様の御意が冗談とも本気ともわからず、ただうつむいていた。
「上様、お戯れはそれくらいで」
母君のやんわりとたしなめる声が、わたくしにはますます遠くに感じられた。
それからも、いれかわりたちかわり参内なさる殿方達、先輩にあたる女房達などいろんな方々に紹介されていく。
御所のお美しさはまさに雲の上にいるような心地であった。
しかも、細かい礼儀作法が たくさんあり、ずっと緊張し通しである。
まして、いつどこで、維盛様にお会いするかわからないと思うと、 いっそう、緊張感が増していた。
だから、一日が終わって、ようやく自分の局に戻れると、ほっとしていた。
新参とはいえ、わたくしには、女院様近くのすぐれた局を与えらていた。
里のお屋敷のお部屋には広さは及ばないものの、品のある落ち着いた部屋だった。
わたくしは、小袖の上に、そっと単の衣を羽織った。
後朝の別れに、維盛様が残してくださった衣だった。
そうすると、不思議と、維盛様にもう一度抱かれているような熱い想いがこみあげてくる。
結局、今日は維盛様に会うことはなかった。今ごろ、どこで、何をしているのだろうか。
維盛様は御所にはすぐれた人が多いと言われたけど、維盛様以上に素敵な方など いなかった。
どの方も、みな微笑していられるが、その奥の心までは誰一人みせようとはなさらない。
そのとき、かすかに、妻戸を叩く音がして、はっとした。
思わず、立ち上がって、戸のそばに向かって、息をころして、外の様子をうかがう。
「優姫」
母君の遠慮がちな声だった。
「母君」
わたくしは、急いで、母君を迎え入れた。
昼間お会いした時には、ほとんど話せなかったし、そばへ寄ることもなかったのである。
わたくしは、母君を見た時、ふと心がゆるんで、何も言えずにただ涙がとめどもなくあふれ落ちる。
「まあ、この子ったら、泣くなんて。しばらく見ない間にこんなに大きくなって、美しくなられたのに、 まだ、ほんと、
子供でいらっしゃる」
そういう母君も、言葉の途中から、涙をこぼしていた。
母君は、やはり、わたくしの母君、何もかわっていなかった。
わたくしを、子供扱いなさる母君は、昨夜、わたくしが維盛様に愛されたことは 知らない。
叔母君にはたぶん、伝わっているはずだから、母君が知るのもそう遠くないと 思うけど、自分からこうですと話すのは、
いくら母君相手とはいえ恥ずかしくてできなかった。
「これは・・・」
母君の言葉に、はっとした。
すっかり忘れていた単の衣を、母君は手にしていた。まぎれもない、男君の衣に、今さら なんて言い訳ができようか。
「これは、揚げ羽の蝶ではございませんか」
母君は、意外なことをおしゃった。なさけなくも、わたくしには、母君の言葉の 意味がわからなかったので、黙っている
しかなかった。
「揚げ羽の蝶のすかし模様が上品に入っているのです。優姫は気づきませんでしたか?」
「はい」
「まあ、『はい』だなんて、あなたは、やはり、まだ子供だこと。 揚げ羽の蝶というのは、六波羅あたりの家紋なんですよ」
六波羅、つまり、平家の家紋というわけである。
「この単の衣は、母上が、今日の為にと用意してくださったのです」 という維盛様の別れ際の言葉が思い出される。
叔母君らしい、上品な見立て。単の衣に家紋の模様を入れた叔母君の思いは・・・。
「お相手の方は、こちらともゆかりのあの君ですね」
母君は、維盛様のことをおっしゃっている。
「はい、幼い頃より心に秘めてきた光君でございます」
わたくしは、母君を真っ直ぐ見据えて答えていた・・・。
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