巻十一
あくる年の菖蒲の季節の頃を、わたくしは小松のお屋敷で、ひっそりとすごしていた。まだ誰にも打ち明けてはいないものの、まぎれもない2度目の懐妊の兆し。今度こそ、姫君をと願わずにはいられない。
六代は平家嫡子として泉殿で乳母らに大切にかしずかれていた。時折、泉殿を訪れては吾子の成長ぶりに目を見はる
思いであった。
今度の吾子はできることなら手元で育ててみたいと思う。 そうすれば、わたくしのこの憂いも少しは晴れようか。
ここ最近の気分晴れぬ要因は、体の変化ばかりではなかった。
わたくしは、気づいてしまっていた。 維盛様には、わたくしの他にも心通わせる方がいらっしゃる・・・。
わたくしだけを愛して欲しいと願うのは、やはり、心のおごりなのであろうか。
光君の物語の女達の気持ちが、ようやくわかるような気がしていた。
あれだけ大切にされた紫の上でも、ただひとりの女君として光君のお気持ちをつなぎとめて おくことはかなわなかった。
まして、わたくしのような者が、今源氏と称されるあの人の、唯一の思われ人でいられるわけが あろうか。
わたくしだけを愛していこうと誓ってくださった維盛様のお言葉にすがって 今まで生きてきた自分は、なんという
子供だったのだろう。
北の方という地位が何であろう。一番ではなく、ただ一人の人でありたかった・・・。
だけど、このようにつらい気持ちを、あの人にはけして見せたくはない。
恋しい人を想いながら奏でるという「想夫恋」・・・好んで何度も奏でた曲ではあるけれど、この曲に こめられた想いを
今初めて、本当に弾けるような気がしていた。
「資盛様がおみえになりました」
桔梗が、そう告げに来た。
今日は、めずらしい方の訪れが多い。
「『想夫恋』に誘われて来てしまいました」
「まあ、それでは、わたくしの想う人が資盛様のようではございませんか?」
わたくしは、軽口をたたいてみせた。
わたくしよりも1歳年下のこの弟君とはなぜか気安く冗談のいえる間柄だった。
資盛様は、重盛様の次男でいらっしゃる。兄にあたる維盛様とは母が違うというものの、 ご容姿はたいそう似て
いらっしゃった。ただ、維盛様の女君のような美しさに比べると、 男らしさがたいそう勝った方ではある。わたくしは、
この弟君を気に入っていた。 もちろん他の弟君は、お義母様のお産みした方々なので、わたくしとも血のつながった
いとこにあたるし、 重盛様の聡明さと叔母君のお優しい心とをどの方もそなえていらっしゃる。
ただ、資盛様は、生まれつき平家嫡男として育てられてきた維盛様、そして、北の方第一の子と して生まれた清経様に
比べると、不運な方でもあった。
まだ9歳の頃、摂関家との争いの引き金となった「殿下乗合事件」をおこしてしまう。
資盛様がたわむれに、女車に乗り込み町へ出かけた所、摂政藤原基房様の行列にでくわした。 そこで、摂政家の
家来達が、資盛様の乗った女車を攻撃された。基房様ももちろん丁重に詫びを入れけれど、 重盛様はお許しにならず、
その後、武の力をひけらかし、基房様に反撃なさろうとしたので、 基房様はおびえてしばらく昇殿を控えたほどである。
もともと、両家の間にあった荘園の相続争いが表向きになっただけではあるが、 資盛様はこれ以来、自ずと謹慎
されたようで、かわりに、芸の道にいそしむようになっていた。
維盛様が歌が苦手といつもいわれるのに 対し、歌も巧みに詠まれる。
また、資盛様自身も、貴族の間で評判の高かった妙音院の筝の琴を習っていたという ことで、わたくしの筝の音に
ひかれてこちらへ来たというのも、あながち偽りではなかろう。
「姉上が、『想夫恋』とはめずらしいですね。こちらでは、いつも明るい楽の曲が 好まれているのに」
「めずらしいといえば、隆房様がおみえになったんですよ」
「隆房殿が? 」
「はい、維盛様をたずねていらしたのですが、いないのを知るとそそくさと退散されました。」
「何のご用だったのだろうか?」
「維盛様の居場所は、わたくしよりは、資盛様の方がご存知ではなくて?」
わたくしは、やんわりと探りを入れる。
「さあ、そういえば、最近は御所の方でよく会うが・・・」
やはり、とわたくしは思った。中宮職の維盛様が内裏の方ではなく頻繁に御所通いとは・・・。
わたくしが御所にいた頃でさえ、頻繁にはお越しいただけなかったというのに。
わたくしが、さがったあとの部屋には、新中納言君と呼ばれる方が入っていらっしゃった。
そう、中納言平親宗様を父とするこの方は、祖母君や女院様の姪・・・以前、維盛様と 縁談があった良子様だった。
断ったはずの姫君となぜ・・・。
桔梗には御所での女童勤めの頃から仲のよい同僚が何人かいて、今でも文のやりとりをしている。
その者達からの情報で、御所での維盛様と新中納言君との噂がここまで届いていた。
「あなたは、思う方と、必ず、幸せになるのですよ」そう、お優しい言葉をかけてくださった女院様も、 このことはご存知なの
だろうか。
「姉上、もう一度、『想夫恋』を弾いてはくださいませんか?姉上の弾かれる筝は、何か独特の 趣がある」
「独特の趣?」
「はい。なんといったらいいか・・・」
わたくしは、こわれるままに筝をひきはじめた。
資盛様は、うっとりと聞き入っていられる。
「そんなにまで資盛様に わたくしの筝が気に入ってもらえるとは。師匠様もきっと喜んで くださるでしょう」
「姉上の師匠とは、どなたですか?」
「大神家の夕霧様の愛娘綾子様にございます。資盛様には中宮徳子様にお仕えしている右京大夫殿と 申し上げた方が
わかりやすいかしら」
わたくしが、全部を言い終わらぬ前に、資盛様のお顔がぱっと明るくなった。
「やはり、あの右京殿なのですね」
筝の音で右京様の筝の音だと聞き分けてしまうだなんて。もしや、資盛様は右京様のことを・・・?
「わたくしは、宮仕えには憧れてますが、いたづらに恋などするまいと思っておりますわ」
そうおっしゃった右京様の言葉を思い出していた。
右京様は、資盛様のことを・・・? 年は少し離れてはいるけれど。お二人とも芸に秀でた優れた方。
わたくしの大好きなこのお二人が、相思相愛だとしたら・・・なんだか素敵である。
わたくしは、右京様に会いたくなった。わたくしの今の気持ちを、右京様に話せたら、 なんておっしゃるだろうか。
だが、宮仕えをしている右京様に会う機会はなかなかもてなかった。
ちょうど端午の日が近づいていたので、菖蒲の薬玉を右京大夫様に贈って差し上げようと用意した。
君に思ひ 深き江にこそ ひきつれど あやめの草の ねこそ浅けれ
あなたのことを深くお慕いして深い入り江で引いた菖蒲ですけど、わたくしの思いにくらべたら ずっと短いものですという和歌を添えて、右京様に贈った。すると、まもなくひく人の なさけも深き 江に生ふる あやめぞ袖に かけてかひある
ひいてくださった方のお気持ちと同じくらい深い入り江に生えていたあやめのは袖にかけてもかけ甲斐の あるものでございます。心のこもったお返し歌が届けられた・・・。
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