巻十三
安元2年、この年は例年になく華やかな春を迎えていた。いよいよお腹の吾子の臨月を迎え、心静かにその時を待っていた。わたくしも、すでに人の子の母。
六代は平家の嫡子として大切にかしずかれている。六代の時は初めてのお産への不安と、今をときめく平家の嫡子を
お産みするかもしれないという重圧に、今にも押しつぶされそうになるのを必死に耐えながらのお産であった。
今度の子は男君にせよ姫君にせよ、嫡子という立場でないだけ気が楽であり、穏やかな気持ちでいられる。
乳母には、お義母様付きの女房、千波に決まっていた。千波の妹の千晶という若い女房もまた、わたくし付きである。
桔梗が清経様の元へ嫁いだので、かわりに千晶を傍らに置くようになり、いつしか一番信頼の置ける関係になっていた。
万事控え目な桔梗とは違い、明朗な性格の千晶はわたくしとは年も同じことから、良い話し相手でもあった。
そして宮中の行事として、後白河法皇様の御五十賀が執り行われることになっていた。華やかなことのお好きな法皇様の
ことである。どれほど盛大になるであろう。
それらも平家で取り仕切る。維盛様は青海波の舞を献上することになっていて、連日のように御所へと通われていた。
青海波といえば、少女の頃に夢中になった光る源氏の物語で読んだ、朱雀院の御紅葉の賀にて光君と頭中将のお二人が
青海波を 舞ったという下りが思い出される。西に傾く夕日影に映えて舞う光君は常よりもいっそう光り輝いて、
その足踏も面持も この世のものとは思えないほどの美しさであったという。ご覧になっていた帝も、上達部もみな
涙を流すほどであった。 そんな光君に、幼い頃のわたくしも、憧れ胸をときめかせずにはいられなかったものである。
その青海波を我が夫、維盛様が舞われるのである。物語の中では一緒に舞われた頭中将は光君の美しさに
及ばなかったというが、 維盛様なら、光君に負けず劣らず美しいに違いない。
だが、わたくしには、維盛様のお姿を拝見することはかなわぬこと・・・。光君の舞いをご覧になった藤壺の宮様は
自分に「おほけなき心(光君とのあやまち)」がなければその姿はもっと美しく思えただろうにと人知れず
嘆いておられたけれど、今のわたくしには、愛する人の美しい姿をご覧になられたことがとてもうらやましく思われる。
そんなわたくしの心を推量(おしはか)ったように、お義母様に北の対へ誘われていた。
「優様、ごめんなさいね。身重なのに呼び出してしまって。体調はどう?」
「順調にございます」
「そう、顔色もとてもいいですわね。よかったわ。ほんとうはこちらから出向こうと思ったのだけど。今日はね、当日の
衣装ができあがってきたんですのよ。本当はまっすぐ御所の方へ届けられるのを、無理にこちらに届けさせたのですよ」
お義母様はうきうきとおっしゃった。
桜萌黄の衣、山吹の下重といった衣装はとても素晴らしかった。この上品さを失わない華麗さは、お義母様の見立てであろうか。
これを着て宮中で青海波を舞う維盛様はどんなに美しいことか。想像しただけでも、うっとりしてしまう。
「なんて素敵なんでしょう。私も宮仕えして維盛様のお姿を見たいものだわ」
ため息まじりに若い女房のひとりが言うと、
「ほんと、その通りですわ。身内なのに、そのお姿を拝見できないなんて残念な。優様も見たいでしょ?」
とお義母様もうなづかれた。
わたくしもあいまいに笑って答えた。そして、女院様近くのあの女(ひと)はご覧になるのだろうか?ふと浮かんだ思いを、
自分自身で打ち消していた。
そこへ、千晶が、嬉々とした様子であらわれた。
「優子様、御所よりの急な贈り物にございます」
そう差し出されたものは、ほんのり紅く染まった桃の花だった。
「まあ、なんて可憐な。贈り主は御所のどなたかしら?」
「優子様愛しの君にございます」
「茶化さないで、答えて」
「ですから、維盛様にございます」
「えっ?」
不意を打たれた思いだった。先ほど、いつものように、出仕なさるのをお見送りしたばかりの我が夫・・・。
よく見ると文が結ばれている。この可憐な桃の花はどうやら文使いらしい。
「まあ。御所に咲く花を愛する妻に届けるなんて。急な贈り物のわりには、ずいぶん雅ですこと」
お義母様の言葉に、若い女房達のうっとりした視線がわたくしに注がれる。
「文も気になりますけど、ここは優様ひとりにさせてあげましょう」
そういって、お義母様は衣装を片付けさせて女房をひきつれて、部屋を出ていった。
ひとり残されたわたくしは、頬が紅潮する思いでそっと文を開く。
御所に咲く桃の花がいつになく、可憐に思えてね。あなたにも見せたくて。とだけ、書かれていた。維盛様は歌は苦手でと常日頃おっしゃっているように、めったに詠まれない。今度の吾子は、きっと姫君。 生まれてきたら、桃子と名付けよう
それだけに、まっすぐな御言葉は、わたくしの心にそのまま染み込んでくるのだった。
衣の上からそっとお腹に手をやり吾子にむかって、
「桃子・・・」
と、語り掛けてみる。すると、お腹の中の吾子が動く手応えが感じられた。 この子は確かに桃子・・・それは揺るぎ無いものとなった。
もしも、今晩帰ってきた維盛様に「桃子と名づけよう」と言われていたとしたら、わたくしにはその真意が
わからなかったに違いない。この可憐な文使いのおかげで、維盛様のお心に共感できたのである。わたくしは
桃の花に思わずそっとくちづけをしていた・・・。
3月4日、いよいよ今日は法皇様の御五十賀が行なわれるという日の早朝、わたくしは、寄せてはかえす波のように
果てしなく繰り返される激痛にひたすら耐えていた。晴れの日を迎えた維盛様にはできれば、悟られたくはなかった。
でも、隠し通せるはずはなく、お義母様や乳母の千波もかけつけ、生まれる時を今か今かと待っていた。
「わたくしのことにはかまわないで。早く出仕なさってください」
息も絶え絶えにそう、維盛様を促すのだが、「間に合うから」といつまでも優しく腰をさすってくれている。
まもなく、御所の重盛様より「大至急出仕を」との命があり、しぶしぶ参内していった。
わたくしは、維盛様のお心がうれしく、そして早く吾子に会いたい一心で、もうこれが最後と満身の力をこめたとき、
なんとも優しい産声で吾子が誕生した。
「姫君にございます」
古参の女房が抱き上げてわたくしに見せてくれた。
早くも髪が黒々と生えそろい、目もぱっちりとあけていてとてもかわいらしい。
それからお湯で清められ、産衣に身を包んだ吾子をようやくこの手で抱くことができた。
わたくしを母であるとわかっているのであろうか? なんともいえない穏やかな表情で微笑んでいる。
「桃子・・・」
思わずそうつぶやいたとき、涙が頬を伝った。その涙でこの可憐な笑顔を汚さないようにと、わたくしはそっと横を向いた・・・。
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