胡蝶舞う

巻十五


女院様の悲しみの崩御からもうすぐ1年が経とうとしていた。平家の中で最初に入内され、 後白河院様の此の上なきご寵愛を一身に受けられた女院様の早すぎる崩御の際には、 一門の深い悲しみと不安を誘っていた。しかし、今の平家は女院様一人身罷られたところで どうこうということもなかったようである。翌年の正月には義父重盛様とその弟君宗盛様が 揃ってそれぞれ左近衛大将、右近衛大将になり、さらに三月には重盛様は内大臣にを兼ねるに 至った。平家一門の地位はもはや揺るぎないものと思われた。

わたくしも愛娘、桃子の成長に一喜一憂しながら平穏な日々をすごしていた。
そして5月末、かねてから気にかかっていた中御門烏丸の実家への里帰りをようやく実現させることができた。 生さぬ仲の母上とは少女時代はほとんど打ち解けて語ることもなかったけれど、今ならば同じ女として 母として素直に心を開く事ができるのであった。 わたくしは桃子を連れて中御門のお屋敷に来ていた。そこで何年振りかで 母上と再会した。父上とゆっくり会う機会すら久しい間持てなかった。 妹君と弟君も大きくおなりである。最初お会いした時わたくしははっとした。この幼い方々の 面影は、ずっと昔の宮仕えの折りにお会いした・・・畏れ多い御方の名を憚られてわたくしは口を 噤んでいた。この屋敷でそれとわかるのはおそらく父上のみ。 その父上は小さな孫の桃子を抱いてご満悦の笑みを浮かべている。

そしてその夜、わたくしは母上と女二人尽きぬ思いを語り合っていた。
「優子様がいつ戻られて来ても安心できるよう、お部屋はそのまま残してございます」という母上の 言葉通り少女の頃のままの部屋にいると、少女の日々に戻っていくようである。
「優子さまも気づいておいでですわね」
母上の昔語りにわたくしは曖昧にうなづいた。
「わたくしがお父上のもとに嫁いできた頃、既に院様の御子を宿していたのは公然の秘密。 院様のお血筋を引く姫君、そしてその姫君によく似た弟君。」
わたくしはますます返答に困ってしまった。
「あれはこちらに嫁いで来たばかりの頃。お忍びで院様の急な方違えがございました。もちろん優子様は ご存知ないはず。わたくしもそれと知らされたものの接待はせずにとの成親様のお言葉でした。 わたくしはお会いしたいというより水臭いと思いましたが、やはり今の立場を思うとうかつに 院様にお会いできる身ではないことを悟りました。もう二度とお会いすることはないのだと思ったのです。 ところがその夜、思いもかけないことが起こったのです。同じお屋敷に院様がいると思うとなかなか 寝付かれなかったのですが、いつのまにか寝入ってしまったようで、はっと気づいた時には、 殿方の強い腕に抱かれていました。成親様でないことはわかっていました。 でもわたくしを包みこんで誘っていく御方に、抗うことができなかった。 それはわたくしにとってお懐かしく、いとおしい御方、身も心もすべて委ねていました。 でも、・・・院様にとってはいつものほんの気まぐれ。たった一度切りでした。 そしてわたくしはまもなく懐妊しました。成親様は喜んでくれました。わたくしは毎日祈るような 気持ちでした。 月満ちて弟君が生まれ、その子はまぎれもなくあの一夜に授かった子でした。そして成親様に申し訳ない 気持ちで一杯でした。 でも成親様の喜ぶご様子にわたくしは全てを悟りました。成親様は気づかないはずがないのです。 すべてを承知で受け入れてくださるのは、あの夜のことは成親様のお計らい事。わたくしを 差し出してまで守りたかったのは、優子様、あなたなのですよ。成親様が愛していらっしゃるのは京極殿。 京極殿との間のあなたが誰よりも何よりも大切なのですよ」
なさぬ仲の母上から聞かされた問わず語りに、わたくしも涙がこぼれた。
母上はその昔、後白河院と二条院の 父子共にご寵愛をかけられていたと聞き知っている。そして父上が妻に迎え入れた。 でもおそらく母上の本当に愛している御方は父上ではなく後白河院だったのであろう。 そして母上のおっしゃるには、その父上が一番愛していたのは私の生みの母君、京極局だという。
院様がこのわたくしを所望されていた・・・?まさかそんなことがあろうか。その為に、父上は 母君と別れて院様の言うなりに母上を譲り受け、母君は院様の許へ行かれた? それがわたくしを守ることの代償だとしたらあまりにも大きすぎる。

その翌朝、思いがけず資盛様が忍びでやってきた。
「兄上の代理で来ました」
資盛様はなぜか強張った様子である。
「成親様は早朝から西八条へ呼ばれて行きました。何の御用でございましょう」
同席した母上が資盛様に尋ねた。
資盛様はちらっと母上を見たがそれには答えなかった。
「姉上。一刻も早くお戻りください」
「資盛殿、やはり成親様は捕らわれの身となったのですね」
「いや、それは」
資盛様は曖昧に返事をした。
「どういうことですの、母上様?」
資盛様が直々にお迎えといってお出でになる程の何か非常事態が起きてるらしいが母上様はなぜか落ち着いている。
「やはり遅かったんですね。いつかこうなると思ってました。ですから優子様をお招きしたのに。 優子様や桃子様にお会いしたらあのような恐ろしい事は思い留まって下さると 」
「ではわたしから説明しましょう。昨夜半、多田蔵人行綱の密告によって、平家打倒の陰謀が発覚したのです。 首謀者の中には、優子様お父上の大納言成親殿と兄上の成経少将殿もおられます」
「父上と兄上が、平家を?」
わたくしは、あまりのことに、にわかに信じられなかった。

小松の屋敷に帰るとひっそりと静まり返っていった。
主だった者は皆、武装して西八条へ駆けつけているという。不気味なくらいの静寂は おそらく平家の屋敷でもここだけであろう。維盛様にはまだお会いできていない。 重盛様の元に詰めておいでだということだがおそらく資盛様からわたくしが戻った事は 耳に入っているはずである。わたくしは一人、息を潜めていた。
夜になり北の対の義母上より呼ばれた。
「中御門の方はいかがでしたか?さぞかし御心配なさっておいででしょう。」
わたくしは小さくうなづいた。母上の全て覚悟されたあの落ち着いていた様を今話しても無意味な 気がしたからだ。
「それより義母上様の方が心配ですわ。すっかりおやつれで。もっと早く来るのでした。重盛様が いらっしゃいます。父上様のことは重盛様を信じて・・・」
わたくしは義母上をなぐさめるつもりだった。
「優子様。あなた何を言ってるの。事の事態がわかってまして?」
「はあ」
「わたくしが何を思っているか」
「ですから父上の身を・・・」
義母上にまじまじとみつめられてわたくしは最後まで言えなかった。
「そうですとも。大納言はわたくしの兄です。そして本来ならば我が平家の 一大事に率先して指揮を取らねばならぬ立場の我が夫、重盛様が、よりによって命ごいなのです。 わたくしの兄というだけで。見捨てられることなどできる御方ではないことなどわかっているだけに 申し訳ない気持ちで一杯なのです。しかもこの度のことは2度目のこと。兄上はその昔の平治の乱で 捕らえられて死罪になる所を、重盛様のお力で斬られずにすんだというのに。恩をお忘れになるとは 情けない」
義母上はご自分の言葉によけい興奮されたようである。
「もう兄上のことはとっくに覚悟しております。あなたも平家に嫁いだのですよ。それを忘れぬよう」
ときっぱりおっしゃった。
中御門の母上様も義母上様も形は違うけれどもそれぞれ立場を踏まえて強くいらっしゃる。
本当に義母上様があきれるのも無理ない。今さらながら自分の甘さを恥ていた。 それでも父上の無事を切に願いわたくしはまんじりともせずに夜を明かした。

「姉上様、よろしいでしょうか」
あたりをはばかり資盛様がやってきた。わたくしは急ぎ資盛様を招き入れた。
「大納言殿の処遇が決まりました。流罪だそうです。とりあえず命だけは助かりました」
資盛様の言葉にわたくしは思わず目を閉じた。
「姉上様。しっかりお聞きください。御所の京極殿にお会いできました」
「母君に」
「京極殿は目の前で髪を切りました」
「なんですって、剃髪を」
「いや、そのお覚悟ですが京極殿も立場を重々承知していらっしゃいます。すぐにという わけではありませんが、大納言殿の無事を願うお気持ちで髪を切ったと推察いたします。 そしてご自分のかわりになんとしても『優子に届けて欲しい』と託されました」
そういって資盛様に文を渡された。
「このなかに母君の髪が」
わたくしは胸が熱くなる思いだった。
「さあわたしと一緒に大納言殿を追いましょう」
「無理ですわ」
「わたしにおまかせください。わたしがすべての責任をとる覚悟です」
「資盛様を巻き込むだなんて、できません」
「あなたも平家に嫁いだのですよ」という義母の言葉が何度も何度もよぎる。
「優子、行きなさい」
はっとして振り返るといつのまにか維盛様が立っていた。
「維盛様」
わなわなと倒れそうになったわたくしを、維盛様が抱きとめた。
「優子、お父上のこと救えずすまなかった。もちろんこれからだって赦されて一刻も早く京に戻れるよう 尽くすつもりだよ。それもお父上に伝えて来て欲しい。」
わたくしは胸が一杯になったが、それでも黙って首を振った。
「優子のお父上はわたしのお父上でもあるんだよ。慰めに行ってあげなさい」
「維盛様。もったいないお言葉にございます」
わたくしは維盛様の腕の中で泣いていた。
「資盛、しかと頼んだ」
「わかりました。しかし、これはすべて資盛一存でしたこと。兄上はなにもご存知でない、よいですね」
こうしてわたくしは資盛様自慢の駿馬に同乗し、父上の護送の車の行方を追って行った。


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