胡蝶舞う

巻十六


暗く遠い眠りからぼんやりと覚めかけた時、とてもお優しい香りがしていた。 なんだかとても心地よくてしばらくこのままこうしていられたらと思うほどであった。
「気がつかれましたか」
声をかけられて、ようやくわたくしは人の気配に気がついた。
「右京様。どうして」
「安心なさって。ここは東山、わたくしの乳母の親戚筋の家にございます。わたくしも里下りの際は、 時々こちらへ留まっているのです。こちらで少しお休みください。夜になったら資盛様が お迎えに来てくれます。小松の屋敷に戻るにはなるべく人目につかれないようにとの配慮ですわ」
「では、資盛様がこちらへ」
「最初、伊勢の物語の業平のように、資盛様がどこかの姫を盗んでこられたかと思いました」
右京様は微笑まれた。
「わたくし、いつのまにか気を失ってしまったのですね。右京様はずっとついててくださったのですか?」
「お目覚めになられたとき心細い思いをさせてはならぬ、それが資盛様の言いつけでしたから。」
「資盛様には感謝しつくせません」
わたくしは、はりつめていた緊張感が一気に溶けていくようだった。
「優子様、まだお疲れのようですわ。もう少しお休みください」
わたくしは素直にうなづいて目を閉じた。お疲れなのはずっとわたくしについててくださった右京様の方 だというのはわかってたから。

浮かんでくるのは父上の姿。囚われる前日のあのお屋敷での家族水入らずですごした時の父上はもう いなかった。一夜で流罪人となった父上の姿をわたくしは一生忘れられないだろう。 御所の母君も嵯峨に移ったという母上も今の父上に会われたらどんなに深く嘆き悲しまれることか。
父上は西方の備前国の児島へ流されるという。摂津国の大物の浦という所でようやく父上と密かに 対面できた。
わたくしは母君から預かった手紙を渡した。
「むかし京極殿と逢ったばかりの頃、問うたことがあった。愛の証に何ができるかと。 京極殿は髪を切ると答えていた。」
父上はわたくしにというよりご自身に語り懐かしんでいらっしゃるようだった。
母君もその時のことを覚えていられたのだろう。そして、父上に今でも愛しているという意味を込められた にちがいない。
「必ずお赦しを頂くから待っていてくださいと維盛様もおっしゃいました」
「優子すまない。そなたはもう帰る所はなくなってしまったね。わしが言うのもおこがましいが 平家一門の人間としてこれからは維盛殿を頼って生きていて くのだよ。」
「でも成親と京極局の娘であることにかわりはございませんわ。まだ六代にも会っていただいて いませんもの。生きていてください。何があっても命を無駄になさらないで。必ずお迎えに参ります」
父上は黙ってうなづいた。
でも肝心なことは聞けなかった。きっとそれが維盛様の命令だとしても、わたくしにはとても 聞けなかった。「いったいなぜ謀反など・・・」結局わからないまま父上を見送ったのであった。
今わたくしにできることは資盛様に感謝すること。維盛様を信じてついていくこと。今、ここで涙を 全部流してしまいたい。 目をあけたらもう惑い哀しむことはしまい。

夕刻前に思いもかけず維盛様がお迎えに来てくださった。
狭い牛車の中でわたくしは維盛様により添っていた。それに答えるかのように わたくしの手をしっかりと握り片時も離そうとなさらない。「安心なさい」という維盛様のお優しさが 黙っていてもまっすぐに伝わってくる。
わたくしは、先程のことを思い出していた。維盛様が右京様に何かそっと耳打ちされたのに わたくしも気づいていた。あのときの右京様が一瞬見せたはにかむような甘えた眼差しは・・・。
「ねえ、維盛様。さっき右京様におっしゃったのは本当のことですの?」
「さっきって?」
「わたくしに一刻も早く会いたくてお迎えに来たとおっしゃっていましたわよね。 でも本当は資盛様と右京様のお二人の為ですわよね」
ふいに維盛様の顔が近づいてきたかと思うと唇を重ねられた。
「優子があんまりかわいいから」
いたずらっぽく微笑まれる維盛様のお顔こそとても美しいと思う。
「資盛が来たら今宵はこちらでゆっくり休ませるよう、わたしの命令だと言ってやったよ。 今度の事では資盛には感謝しつくせない。」
「はい。」
「お二人の事は知っているよ。もちろん認めている。だが無理だから。 右京殿もお覚悟はできているはず」
「お覚悟?」
「いずれ資盛も一門の為にどこかの姫を北の方に迎えるということだ。右京殿の 御両親とも芸に長けた方々だとは承知しているが、残念ながら平家嫡流のわが家に嫁げるような 家柄ではないからね。酷なようだが、必ず別れる時が来る。 清経の時のようにはいかないからね」
「わたくしはふさわしかったのでしょうか。維盛様に。謀反の成親の娘であるわたくしが」
「何いうんだ。成親の娘であるから許された仲なんだよ。初恋が叶うなんて滅多に ない有り難いことじゃないか。 それにふさわしくなくてもいいさ。わたしが優子にふさわしくなればそれでいい。優子と子供達と ずっといっしょにいられれば他に望まないよ。だが嫡流に生まれた立場はあるからね。 この先どうにもならない事もあると思う。でも本心はただ一つ。優子を愛してる。 いつも優子を一番に考えているからね」
「うれしゅうございます」
父が愛して母が愛して、この世にわたくしという命がある。それが確かだと信じられたからわたくしは 自分に誇りをもって生きていきたい。愛してると繰り返すこの方のそばで。
「共に同じ屋敷に帰れる幸せを今初めて知ったよ」
そうささやいた維盛様の手をわたくしはしっかりと握り返していた。


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