一、史実にみる右京大夫 まず、史実より右京大夫という人物について明らかにしてみる。昔の女性の常であったように、右京大夫 の本名も生没年も確かではない。もし、この『右京大夫集』がなかったら、右京大夫の生き方を知ることは なかったであろう。ごくわずかな資料から、建礼門院につかえた女房に右京大夫という人がいたということ しかわからないのである。しかも、その資料さえも『右京大夫集』流布の過程において、意識的に記された ものであるように思われる。
通説によると、宮内少輔従五位上藤原(世尊寺)伊行の女で、母は楽人大神基政の女で箏の名手夕霧の 尼であるという。これは『尊卑分脈』の記録により明確である。『尊卑分脈』とは、南北朝時代に存在した諸系図の 集大成であるから、公の史書としてとらえてよい。
それによると伊行は、平安中期の文人、書家で、小野道風、藤原佐理とならんで「三蹟」と称されている 藤原行成の子孫にあたる。伊行には七人の子供がおり、そのうち「女子、建礼門院女房、箏、右京大夫、 母夕霧、大神基政女」と記載されているのが、『右京大夫集』作者にほかならない。系図では 普通、女の場合、「女子」とのみ書かれて名前が書かれていないことが多い。伊行には四人の娘がいるが、 右京大夫以外の娘三人については、「女子、大夫局」「女子」「女子、忠能卿妻」とごく簡単に書かれている だけである。それは、右京大夫は『右京大夫集』の享受によって比較的知られていた存在だったので、 注が他の三人よりも長いのではないだろうか。
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