第一章 『右京大夫集』の概観


ニ、成立事情と構成 

 次に、『右京大夫集』の成立事情について考えてみたい。編纂動機については、『右京大夫集』の序文において 触れている。

家の集などいひて、うたよむ人こそかきとどむることなかれ、これは、ゆめゆめさにはあらず、ただ、あはれにもかなしくも なにとすれどもわすれがたくおぼゆることどもの、あるをりをり ふと心におぼえしを、おもひいでらるるままに、我がめひとつに みんとてかきおくなり。

一、われならでたれかあはれとみづくきの あともしすゑの世につたはらば

(「つたはらば」は「残るとも」の誤読だという説もある。)(中略)

 以上が序文である。右京大夫は、これは公的な家集ではなく自分の気持ちを自分だけのために記したもので 、もし後世へ伝わって他人に読まれたとしても、私以外の人にはわかるわけがないと言っている。初めて この序文を読んだとき、右京大夫はずいぶん閉鎖的だと思われた。でも、読めば読むほど逆に右京大夫に 引きつけられていくような気がした。

それは跋文も同じである。

返返うきよりほかのおもひでなき身ながら、としはつもりていた づらにあかしくらすほどに、おもひいでらるる事どもを、 すこしづつかきつけたるなり、おのづから人のさることやとい ふには、いたくおもふままのことかはゆくもおぼえて、 せうせうとぞかきてみせし、これはただわがめひとつにみんとて かきつけるを後にみて 三三九、くだきけるおもひのほどのかなしさも かきあつめてぞさらにしらるる

以上が跋文である。自分の心のままを他人にもわかってほしい。でも、心の一番奥深い部分はけっして 私以外の人にはわかりますまい。なぜなら、あのような悲しみの体験は、私のほかに味わった 人はいないのだから。でも、愛する人が生き、そして私も共に生きてきた証しを残し、人々に 知って欲しい・・・・・・そう願う右京大夫の切なる叫びが聞こえてくるような気がする。
このように序文と跋文とでは内容が類似しているうえ、同じような言葉の表現がなされていることから、 家集編纂の際、ほぼ同時期に書かれたと考えられる。ここで強調されているのは、両者に 共通した表現の「わがめひとつにみんとてかきつける」とある箇所であろう。いったい、なぜそのような ものが広く流布されるにいたったのだろうか。
その答えは、跋文の続きにある。藤原定家が『新勅撰集』を編纂するにあたり、そのときの 資料として提出したのが、『右京大夫集』である。このときから『右京大夫集』は右京大夫の 自伝として、世の中へ一人歩きしていくのである。
しかし、単なる勅撰集の資料としてなら、題詠歌を中心とした歌本位の家集を提出してもよかったのでは ないだろうか。『右京大夫集』は長い長い詞書をもち、その詞書に右京大夫の感情があふれていることから 、家集というよりも、日記的であるといわれている。しかも、その中心は、愛する資盛への思いである。 あえてこのような家集を提出したのは、やはり『右京大夫集』を多くの人に読んでほしかったからであろう。 藤原定家といえば、当時の歌壇の最高権威である。その人に親切な心配りをかけていただいて、右京大夫は どんなに感動していたことであろう。 また貴族がみな、生活の中で歌を交わす世にあって、秀でた歌として認められ、勅撰集という公的な歌集に 載ることは自分の家集を残す以上に名誉あることだった。『新古今和歌集』にはもれていしまったのであるから、 晩年になって歌詠みの数に入れてもらえ、その喜びは一層のものであったろう。

では、この『右京大夫集』が成立したのはいつ頃か。
 もともとは日記のように、その折々に書き綴っていたものを、資盛死後、追善供養に明け暮らしていた頃、 まとめられ、その後も書き継がれていったのであろう。
 内容的には、以下の四期に大別できる。
 (一)承安三年(1173)末頃から治承二年(1178)年十一月以前までの五年間の宮仕え
 (ニ)退出して里にいた頃
 (三)「寿永元暦などの頃の世のさわぎ」の頃
 (四)後鳥羽天皇の宮中に再出仕
 そして、(一)(ニ)を上巻とし、(三)(四)を下巻とする諸本の系統もある。
 また、ほぼ(一)と(ニ)の間に位置するのが、四十首の題詠歌群である。高松女院妹子内親王家歌合、 稲荷社歌合、小松内大臣家菊合などの歌合に右京大夫は出席したようだし、また宮仕えで中宮の題詠をし て貴族と贈答を交わしていることからも、立派な歌人として認められている。その歌人として の意地ででもあるかのように、題詠歌が載っている。
 さらに、(三)と(四)の間には、七夕の歌を集めて置かれている。これもやはり、歌人としての 自信がうかがえる。あるいは、時間の流れや場面の転換を意味する、構成上の意図的配置かもしれない。
右京大夫は、思いのままを綴って、他人に見せるほどのものではありませんといいながらも、その構成や 内容はしっかり考慮されたものであった。資盛と自分の恋愛、さらには平家や他の貴族達との交流を 描いているのだから、正確に伝える必要がある。変に誤解されたら、関係している人々に迷惑がかかってしまう からである。そのようなことから、日記的自叙伝的家集を残すということはそれなりの覚悟がいった ことだと思う。だから、序文と跋文を備え持つ、きちんとした家集が成立することとなったのであろう。


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