一、平家女人の生き方 源平の争乱で最愛の人を失ったのは、右京大夫だけではなかった。『平家物語』には女人たちの さまざまな哀しみのエピソードの数々が語られている。最愛の人を失ったとき、彼女達は どうしたのだろうか。 彼女達の生き方と右京大夫の生き方を 簡単に比較していきたい。
平通盛の北の方、小宰相の身投げが有名である。小宰相は、平家都落ちのとき、夫について西海へと 落ちのびて行った。右京大夫が都にとどまり、資盛の安否を気遣うのとは対照的に、小宰相は常に 夫と行動を共にした。しかし、戦は男の戦いである。小宰相も死の場所までは一緒にすることはできなかった。 一の谷の合戦で通盛は討たれ死んでいく。それを知った小宰相は床に伏してしまった。数日後、 小宰相は乳母に、 「生きてゐてとにかくに人をこひしと思はんより、ただ水の底へといらばやと思ひさだめてあるぞとよ。」 と死ぬつもりであることを告げる。乳母はもちろんとめたが、翌朝、海には美しい女の人が浮いていた。 小宰相である。しかも小宰相はこのとき身ごもっていたのである。通盛にとっても初めての子だった。 小宰相は、自らの命と共に宿りはじめた小さな生命までも葬ってしまったのだ。小宰相の死は、人々の 涙をさそった。小宰相はなぜ死を選んだのか。
中略 戦に象徴される諸行無常の武士の世界をひとりで生きていくには小宰相は弱すぎたのではないだろうか。
維盛も都に残してきた妻子恋しさが募り、平家の武士団を去り、やがて、かなわぬことを悟ると、出家し自殺する。 平清盛長男重盛のさらに長男という嫡流でありながら、維盛は戦には向かない貴族的な人物であった。 実際、光源氏の君と呼ばれるほどの、美男子ぶりで、ずいぶん前の富士川の合戦でも、戦わずして 京に逃げ帰り、平家の評判を落とした。嫡子でありながら、重盛のあまりにも早過ぎる死のあとは、 その影は薄くなっていく。平家の一門として生まれた以上、避けられない運命に支配されていた。 そこから逃れるには死を選ぶしかなかったのである。死は敗北を意味するが、強い意志のあらわれでもあった。
右京大夫は、小宰相について、
と述べている。通盛を選んでなければ、小宰相も身投げするようなことにはならなかったのにと嘆いている。
・・・・・・そこのもくづとまでなりしを、あはれのためしなさは、よそにてなげきし人にをられなましかば、 さはあらざらまし、返返ためしなかりける契のふかさも、いはんかたなし
その悲運は、やがて右京大夫の身にもやってくる。
壇の浦で、平家が滅亡したとき、資盛も入水自殺した。右京大夫もまたこの悲報を聞くと、ショックのあまり 寝込んでしまった。右京大夫は小宰相のように死ぬこともできなかった。自分一人が悲劇をすべて背負った かのように周りを一切断絶して、哀しみの中で一人泣いていた。そして泣き疲れた頃、資盛が 「後の世をとへ」と言い残していった言葉を思い出し、資盛の供養を行った。
という歌を詠んでいる。たったひとりこの世に残されて行かなければならぬ運命は、命を捨ててしまった 小宰相よりも残酷なのである。
ニ三〇 かばかりのおもひにたへてつれもなく なほながらふるたまのをもうし
実際、平家の女性達のほとんどが貴族社会から武士社会への過渡期を夫や恋人、兄弟のかわりに見届けなけ ればならなかった。そして、彼らの死を追善供養することが残された女性たちの宿命であった。
その代表は建礼門院徳子であろう。壇の浦の平家最期の時に、自らも入水自殺を図ったがまもなく 助けられ、その後出家して大原の寂光院で平家の霊を弔った話はあまりにも有名である。建礼門院は 出家する以外に選ぶ道はなかった。そして、結果として平家一族の一切の責任を背負う形となったのである。右京大夫も大原の女院を訪ねて行く。
という歌を詠み、かつて宮中でお仕えした女院のかわりはてた姿を嘆いている。
ニ四〇 今や夢むかしや夢ともよはれて いかにおもへどうつつとぞなき ニ四一 あふぎみしむかしの雲のうへの月 かかるみやまのかげぞかなしき
右京大夫にとって女院は、自分の青春のすべてであったのではないだろうか。女院にお仕えした中で、 資盛ともめぐり逢ったたのである。その資盛は今は亡き人となってしまった。しかし、死の亡骸さえ 見ることができなかったのであるから、その死の悲しみを嘆いてみてもやり場のない漠然とした、もので あったのではないだろうか。それが、敬愛する女院のかわりはてたお姿を拝見したことによって、 滅んで行った平家を実感したのではないだろうか。
という歌を残して、大原を後にする。ここで右京大夫は出家したいという願望にかられ、女院のそばに お仕えしてともに大原の地で安住したいという気持ちがわいてくる。しかし、右京大夫は、仏道への 求心はあっても、出家しなかったと思われる。現在、大原の寂光院前の山道を少し上がったところに 右京大夫の墓と伝えられている墓がある。しかし、この後、右京大夫が大原を訪れたという記録は 残ってはいない。
ニ四ニ 山深くとどめおきぬるわが心 やがてすむべきしるべとをしれ
右京大夫は小宰相や建礼門院とは違った道を選び、平家の魂を鎮め、さらに愛する人と生きた証しを 永遠なるものにしようとした。それが『右京大夫集』編纂、つまりは文学者としての自覚なのである。
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