第三章 平家女人と右京大夫


ニ、文学を志した右京大夫 

右京大夫が文学者として作品に自分の人生を託したと思われるのは、『右京大夫集』編纂による理由 ひとつからではない。『山路の露』という作品の作者ではないだろうかという仮説があるからである。 『山路の露』とは、『源氏物語』の末巻「夢浮橋」をもとに、その続編として書かれたものである。 作者未詳で、成立は室町時代とするのが通説である。

中略
(『山路の露』と右京大夫の類似点を述べている参考文献を引用しているが省略する)

しかし、『山路の露』は、「薫の心理や浮舟を取り囲む状況に何ら変化がない」「薫の複雑さ、 その惑いを全く受け継がなかった」「よくまとまった美しい小品ではあるが、継続でありながら、 『源氏物語』の思想を継承しなかった作品」と批判されているという。
以下に述べるのはまったくの私見で、残念ながら確証できる資料をみつけられなかったのであるが、 一応記しておく。
右京大夫は若かりし頃、資盛と隆信との間で揺れ動いていた。しかし、どちらもたよりにはできなかったのである。 隆信がやがて正妻をめとる頃には、隆信との仲は途絶えていたが、そうでなくても、年のだいぶ離れた 隆信は、名だたる色好みの男だった。
一方の資盛は、今をときめく平家の嫡流平重盛の次男である。身分違いの恋であり、正妻など とても望める地位ではなかった。芸術家の家柄の娘で貴族社会に身をおいて生きていくことしか知らない 右京大夫にとって、自分の恋人と共有できない部分、つまり武士社会の宿命である合戦は、右京大夫に とっては想像を絶する出来事であった。しかし、皮肉にも、その戦が二人の愛を深め、確かで揺るぎ無い ものへと昇華させていった。資盛は戦死という他の何よりも衝撃的な最期でもって、二人の愛を 絶対的なものとして、自分亡き後まで右京大夫を自分のものと束縛することとなった。 右京大夫もまた、二人の愛を記録として残すことによって、永遠のものとし、残された自分の一生を 亡き資盛へと捧げたのである。
悲しみと追憶の中でひっそりと生きるしかなかった頃、右京大夫は、かつての恋人隆信と再会することは 皆無であったと言いきれようか。『右京大夫集』にはそのようなことを一切書いていないが、歴史を 考える上で、無いことの証明はできない。隆信に直接会う機会がなかったとしても、折りにふれ、 隆信の消息を耳にすることはあったであろう。
隆信という人物は、似せ絵の大家として、世界的にも知られている。かの有名な平重盛、源頼朝の 肖像画は彼の作品である。そして、どうやら、文学者として、作り物語を書いたこともあったようである。 『無名草子』に、隆信が『うきなみ』という物語をつくったとある。また、『増鏡』の序文では 、隆信が『弥世継』という歴史物語を書いたとある。両方とも現存しないが、『うきなみ』は 主人公権中納言の女性遍歴を描いた物語であり、『弥世継』は『今鏡』の後を受け継ぎ、高倉天皇、安徳 天皇二代の事跡を記したという。
特に『うきなみ』は早くから流布していたことが『無名草子』よりうかがえるので、右京大夫も手にとる 機会にめぐまれたのではないだろうか。
数々の浮き名を流していく物語主人公に、昔の隆信を重ねて思い出した。そして、資盛と隆信の二人の 男性に翻弄されながらも必死に生きていこうとしていた青春時代の自分を、薫と匂宮の間で揺れ動いていた 浮舟になぞらえてみたのではないだろうか。そして、隆信に影響されて自分でも作り物語を書いてみたの ではないだろうか。
右京大夫の父親は当時、すでに源氏物語研究の第一人者であり、父の影響で右京大夫も『源氏物語』に 造詣深かった。だから、浮舟の立場を借りて、自分の若かりし頃の恋に自分なりの結末を導き出したの ではないだろうか。その答えが、宗教心であった。それは、小宰相の身投げを知ったとき、通盛と 結婚していなければ死ぬことはなかったのだとあわれんだように、自分も昔、出家して思いを断ち切って いれば、恋人の戦死という地獄をみることもせずにすんだのにという思いかもしれない。しかし、この 時、宗教心という答えが生まれたのは、当時の右京大夫にとって宗教の帰依というのが一番強く引かれる ことであったからだと思う。
仏の道を強く望みながらも、右京大夫は出家しなかった。右京大夫は『山路の露』を書くことによって、 その書くという行為のすばらしさを知ったのではないだろうか。そして、自分を愛する人の生きていた 証しを永遠なものとするためには、この行為より他にはないと気づいたのではないだろうか。今日、 我々は資盛と右京大夫の恋は『右京大夫集』によって知ることはできるけれど、資盛と正妻のことは ほとんど知ることはできない。それを考えてみても、右京大夫の女としての意地のようなものが感じられる。
右京大夫は、晩年になって自分の一生を振り返ったとき、華やかな宮仕えのことを『右京大夫集』の前半部に まとめた。それは右京大夫の人生のほんの序章であった。そして、『山路の露』という作り物語を書くという 行為でもって、隆信との恋に完全なる決着をつけた。そして、最後まで追い求めてやむことのない資盛への 愛の証しを『右京大夫集』の後半部にあらわしたのではないだろうか。
したがって、右京大夫は歌人として、文学者として、その名を後世へと残していく生き方を選んだのであると いえよう。今日までの享受から考えてみても、その選択は成功したのである。


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