第四章 勅撰集入集歌にみる歌人像


跋文での定家とのやりとりでもわかるように、右京大夫の歌は、『新勅撰集』にニ首取り入れられた。 その後もさまざまな勅撰集に入集するが、一番注目するべきは、『新勅撰集』から約百年後の『玉葉集』に 十首載せられていることだろう。これは、勅撰集で最も多い。

中略

このことより、『玉葉集』入集歌をもとに、後世の歌人が右京大夫をどのような歌人としてとらえていた かを探ることによって、右京大夫の生き方をも考えてみたい。
では、『玉葉集』とはどのような家集であろうか。『玉葉集』が編纂されたのは、鎌倉時代の伏見天皇の 御世である。当時は政治の面でも、歌壇においても、非常に複雑であった。撰者の間に選定方針のくい違いが 生じ、その結果、当時の歌壇の主流であった二条派の権威に対抗する京極為兼が、単独で選定することと なった。よって京極派風の歌が中心となっている。
京極派風とは、為兼の歌論書『為兼卿和歌抄』に表されているが、その主題は、歌は心に感動したことを そのまま言葉に置き換えて表すべきであるということだ。
『玉葉集』にでてくる歌の配列は、『右京大夫集』と一致しないが、源平動乱を背景とした作品も多く とりあげられ、右京大夫と資盛の恋もわかるようになっている。このことより、それぞれの歌について 『玉葉集』の順に追っていきたい。
なお、歌の前の番号は『右京大夫集』(国歌大観のもの)の歌番号で、( )は『玉葉集』の巻名と 歌番号である。)

一九七 ぬれそめし 袖だにあるを おなじ野の 露をばさのみ いかがわくべき (恋三、一五四一)

 この歌は、資盛の叔父の平重衡が、自分も資盛と同じように思って欲しいと言ってきたのに対する 返歌である。歌自体はそれほど問題はないが、『玉葉集』の詞書の方に注目したい。この箇所で、 「前右近中将資盛に物申しける比」というように、二人が恋愛関係にあったことを明示している。

一四八 心にも 袖にもとまる うつり香を まくらにのみや ちぎりおくべき (恋三、一五五八)

これは、「一四七 たれが香におもひうつるとわするなよ よなよななれしまくらばかりは」という 歌を右京大夫が歌ったのに対して、前右近中将資盛の返事として『玉葉集』にとられた。しかし、 前後の関係からこの贈答は、隆信とのものであり、資盛の歌としたのは、為兼の誤認であると一般的に指摘 されている。後にも述べるが、資盛の歌三首のうちニ首までも、隆信の歌を間違えてとられているのである。

六一 ゆふひうつる こずゑの色の しぐるるに 心もやがて かきくらすかな (恋四、一六五三)

この歌は、『右京大夫集』においては、資盛との恋愛について初めて書かれた箇所で詠まれている歌である。 この詞書や歌からはけして明るい恋であったとは思えない。右京大夫は「思ひ」という言葉を主として、 「恋するがゆえの憂い、心配」という意味で用いていたように思うが、ここではその「思ひ」という語が 五つも入っている。すべてが直接、憂いを意味しているわけではないけれど、全体として沈みがちな イメージを与えている。逆にいうならば、この恋が遊びの恋ではなく本気であったがために明るさが みられないのである。このように、右京大夫の家集において初めて資盛を慕う歌を、詞書も『右京大夫集』の それを踏襲したことは意義深いものに思われる。

一五四 かよひける 心のほどは 夜をかさね みゆらむ夢に おもひあはせよ (恋五、一七五〇)

一五五 げにもその 心のほどや みえつらむ ゆめにもつらき けしきなりぬる (恋五、一七五一)

一四七の歌を隆信との贈答歌とみるならば、同じくこの歌のやりとりも、前後の関係から隆信とのものと みることになり、またしても、『玉葉集』には資盛との贈答歌として誤ってのったことになる。
昔の人々は夢に対し、特別な思いを抱いていて、恋の相手を夢に見るのは、相手が自分を思っている 証拠というように考えられていた。小野小町の有名な歌に、
うたたねに恋しき人を見てしより 夢てふものはたのみそめてき
というものもある。現実はだめでも、夢で逢えることを頼みにしているのである。右京大夫は、夢に見る あなたまでも自分につれない態度をとると嘆いているのであった。相手につらくされてもなお、 まだ愛されていることの証拠が欲しくて、右京大夫もはかない夢をあてにしていたのであろう。 そして相手の夢がみれたことを内心うれしく思いつつも、やはり心の奥深くに潜む悲しみは晴れることがなく 、夢の中のあなたまでも自分につれない態度をとっていますと返事を送ったのである。相手がどちらの 男であれ、この歌からは右京大夫の悲しさが痛切に感じられる。

六七 ものおもへば 心のはるも しらぬ身に なにうぐひすの つげにきつらむ (雑一、一八三四)

この歌は、『右京大夫集』では、六一の歌から続いて、資盛へのつらくやるせない愛情を歌った一連の 歌にある。しかし、『玉葉集』では「恋」ではなく「雑」に入れられている。六一と同様に「恋」に入れた方がいいように 思われる。『玉葉集』は「恋」の歌が比較的少ないと言われているが、このような歌を「恋」に分類しないことが 関連しているのかもしれない。

二六六 あらずなる うき世のはてに ほととぎす いかでなくねの かはらざるらむ (雑ニ、一九一六)

当時、「ほととぎす」は古くから夏を知らせる鳥として詩歌にも多く詠まれて親しまれていたし、また その異名「しでの田長」から死出の山と結びつけ冥土からくる鳥と信じられていた。『玉葉集』の 詞書でも文治元年夏、つまり平家滅亡の年に詠んだとある。ほととぎすを待ち望むさまは、右京大夫に とって当然資盛に通じるものであった。しかし、『玉葉集』の配列では、このときは資盛の死が 明かではない。

二五二 月をこそ ながめなれしか ほしの夜の ふかきあはれを こよひしりぬる (雑二、二一五一)

この歌は、右京大夫の中で、最も有名な歌の一つである。「星夜賛美の歌人」として絶賛されている。

中略

ほんとうに、勅撰集に取り入れられるのにふさわしい秀でた歌であった。

二二一 あるほどが あるにもあらぬ うちになほ かくうきことを みるぞかなしき (雑四、二三三一)

資盛は、もう手紙のやりとりはしないがそれは右京大夫のことを思わないからではない、と言い残して 都落ちをしたが、実際は情のこもった手紙のやりとりをすることになる。この歌も手紙のひとつであり、 資盛の兄の維盛が自殺したことの悲しみの贈答歌である。ちなみにこの歌と対応する右京大夫の歌は、

二一八 おなじ世と なほおもふこそ かなしけれ あるがあるにも あらぬこの世に

というものである。右京大夫の歌の方が先に詠まれ、資盛は右京大夫の歌の下の句を踏襲していることが わかる。この箇所は、『右京大夫集』でも感動する場面なので、右京大夫の歌がなぜ、一緒に入れられていないのか 疑問に残るところである。そして、『右京大夫集』ではこの贈答歌を最後に、「まこと心この世のほかに 聞きはてにし」と資盛の死を告げている。

二六九 いかにせん 我がのちの世は さてもなほ むかしのけふを とふ人もがな (雑四、二三四〇)

この歌の詞書で「前右近中将資盛身まかりて」と、資盛の亡くなったことを記している。『右京大夫集』には 、資盛の忌日に詠んだとある。自分が生きているうちはいいが、死んだら誰が自分のかわりに弔うのだろう。 自分はどうなってもいいけど、あの人の命日を弔ってくれる人がほしいという意味の歌である。いつまでも どんなときにでも右京大夫が思うのは資盛のことのみなのである。

二六二 うきことの いつもそふ身は なにとしも おもひあへでも なみだおちけり (雑四、二三四一)

この歌は、二六九の歌に続いて配列されている。いつもいつもつらいとばかり思っているので、何でもないのに わけもなく涙が零れ落ちるという歌であるが、いつまでも右京大夫は資盛を失った悲しみから離れることは できなかったのである。

二五九 こひしのぶ 人にあふみの うみならば あらきなみにも たちまじらまし (雑四、二四〇三)

この歌にも、右京大夫が資盛のことを慕って悲しみの中に生きている気持ちが表れている。

中略

二〇六 いづくにて いかなることを おもひつつ こよひの月に 袖しほるらむ (雑五、二四八五)

これは、詞書に寿永ニ年とあるように、平家都落ちの際、西国へと逃れて行った資盛のことを案じている 歌である。この前の二〇四の歌の詞書は『右京大夫集』の中で最も長いものである。都落ち直前の 資盛との最後の別れの場面である。実際、この別れは二人の永遠の別れとなるのであった。 資盛はもうこの時は覚悟を決めていて、ただ右京大夫に自分の後世を弔ってほしいと願うだけであった。 この頃には、お互いの心はもう深く結ばれていて、資盛は頼りにするのは右京大夫のことであり、 右京大夫もただただ都落ちした資盛の安否を気づかうばかりであった。
この歌は、資盛の都落ちの歌であるが、もう、すでに資盛の死の哀悼歌が採られているので順番的には おかしいが、勅撰集ということで、他の歌とのかねあいがあったのかもしれない。

以上が『玉葉集』入集歌である。
このようにみてみると、「恋」と「雑」の部立にのみ入っていることがわかる。この雑四は、哀傷の歌が 多いのである。
『右京大夫集』の特色として、家集の終わりには、長く流麗な詞書を持つことがあげられるが、 それを踏襲しているだけあって、『玉葉集』の詞書も「題しらず」などというのはなく、初出の 「恋三、一五四一」の詞書には資盛を恋人として明白に表している。 また、恋歌に入れてもよいと思われる歌が雑歌の方にあるのは、雑歌は右京大夫の場合、特に 哀傷としてとらえられていることから、個人的な資盛への愛ばかりではなく、広く平家への哀悼歌として とらえたのかもしれない。当時は、『平家物語』が盛んに享受されていたので、その裏面的色合いの 『右京大夫集』も広く読まれていたのであろう。

中略

これは、為兼の心情をそのまま歌にして詠むという理想と通じている。よって、為兼は『右京大夫集』より 十首も『玉葉集』に採り入れられたのである。しかも題詠歌はなく、資盛に何らかの関連があるもの、 関連づけるものであり、どれもが右京大夫の心の嘆きであるように思う。為兼は右京大夫の宮廷歌人としての 社交的な歌に彼女の生き方を認めたのではなく、悲しみの人生における吐息のような歌に、右京大夫の 魅力を見出したのであろう。
そして、右京大夫の歌はその後、『風雅集』をはじめとする勅撰集や私撰集に入集することとなった。 また、『徒然草』の作者吉田兼好も『右京大夫集』を読んでいたことが、『徒然草第一六九段』の 話しからうかがえる。近世になると、『女郎花物語』や荒木田麗女の『月の行方』という 作品で用いられたという。

このように、『右京大夫集』は作者の手を離れると、文学作品として後世へと享受されていくのである。 諸行無常、盛者必衰のあわれの世界『平家物語』を語り継ぐとき、建礼門院や小宰相ら女人平家の悲しみ とともに、右京大夫の生き方もまた語られていったことであろう。


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