一言で言うと『源氏物語』五十四帖「夢浮橋」の続編であるが、第三者によって書かれたもので、成立も中世であると
考えられている。古くから紫式部作とは別の物語として扱われてきた作品である。
作者として、藤原(世尊寺)伊行(これゆき)という説がある。伊行は、平安時代の書家で
三蹟の一人としてたたえられる藤原行成を始祖とする世尊寺家の六代目で、自身もまた平安時代後期の
書家であり、『夜鶴庭訓抄(やかくていきんしょう)』という書道の秘伝を著した。また、国文学にも
造詣深く『源氏物語』の現存最古の注釈書である『源氏釈』は伊行の著であり、『伊勢物語』の本文研究にも携っていた。
そのことから、伊行を作者として考えられてきたが、伊行女(むすめ)である右京大夫の方が作者ではないかという
説があがってきた。『建礼門院右京大夫集』と内容や文体が非常に似ているのである。
例えば、序文をみてみると・・・( 『源氏物語 山路の露』 『建礼門院右京大夫集』 )
これは、かの光源氏の御末の子に、かをる大将ときこえし御あたりのことなれは、そのつづきめいたるこそいとかたはらいたうつつましけれど、ゆめゆめさには侍らず。
家の集などいひて、歌よむ人こそかきとゞむることなれ、これは、ゆめゆめさにはあらず。
ただかのをのの里人にたづねあひたりしありさま、こなたかなたの御けしきくはしうみける人の、ゆめのやうなる
御中の哀れに忍びがたくおぼえけるままに、なにとなく筆のすさみに書きおき侍る、その人心にもさこそ人にはもらさざりけんを、かりそめなる
旅の空にて、ぬしさへはかなくなりにければ、あだなる人のその行末をとぶらはんとて、もしほ草かきあつめけるそぞろごとどもみなえり
出でてきやうのかみにすかせけるついでに、これをみつけ、なにのきき所あるふしもなれども、はていかならんと思ひわたる人のゆくへなりけると、みるばかりのせめてをかしさに、のこしおきけるにやあらん。
ただ、あはれにも、かなしくも、なにとなく忘れがたくおぼゆることどもの、あるをりをり、ふと心におぼえしを、
思ひ出でらるゝままに、我が目ひとつにみんとてかきおくなり。
と類似しているのがわかる。
右京大夫は、平資盛との恋が有名であるが、宮仕えをしていた若かりし頃、実はもう一人の恋人がいた。藤原隆信である。
隆信は似せ絵の大家として世界的に知られている。あの教科書にも必ず出てくる有名な平重盛と源頼朝の肖像画は隆信の作品である。
現存しないが、『うきなみ』と『弥世継』という作り物語も書いた芸術家である。右京大夫よりずっと年上で、色好みの男であり、右京大夫は
隆信への恋もただ一つの恋と頼みにすることはできなかった。今をときめく平家の嫡流の次男である資盛との恋も多難な恋であり、
二人の間で揺れながらも、そのどちらの正妻にもおさまることのできない立場におかれていた。
この二人の男性に翻弄されながらも必死に生きていこうとした青春時代の自分を、薫と匂宮の間で揺れ動いていた浮舟の立場になぞらえて
みたのではないだろうか。浮舟の立場を借りて、自分の若かりし頃の恋に自分なりに結末を導き出した。入水後、出家して恋を断ち切った浮舟に
強い共感をもったのではないだろうか。だが、右京大夫は出家をしなかった。右京大夫は、後世を弔って欲しいという資盛との約束を
永遠に残す為、文学すなわち「書き残す」という手段を選んでいたのである。
右京大夫は晩年になって自分の生涯を振り返ったとき、華やかな宮仕えのことを『右京大夫集』の前半部にまとめた。そして、『山路の露』という
作り物語を書くという行為でもって、隆信との恋に完全なる決着をつけた。そして、最後まで追い求めてやむことのなかった資盛への愛の証しを
『右京大夫集』の後半部にあらわしたのではないだろうか。
『山路の露』は、「薫の心理や浮舟を取り囲む状況に何ら変化がない」「薫の複雑さ、その惑いを全く受け継がなかった」
「よくまとまった美しい小品ではあるが、継続でありながら、『源氏物語』の思想を継承しなかった作品」などと文学的価値は低い。
しかし、『山路の露』作者を右京大夫とする場合、この作品の主旨は『源氏物語』の継承というよりも、むしろ、『右京大夫集』の
「我が目ひとつにみんとてかきおくなり」に近いものがあると思う。右京大夫の「私だけの思いであるが、後世に残したい」と願う気持ちは
見事にかなっている。その意味で、価値ある作品であるといえよう。
詳細は建礼門院右京大夫論(卒論)ニ、文学を志した右京大夫 をご覧下さい