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田子の浦に うち出てみれば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
「田子の浦に出てみると、真っ白な富士の高嶺に雪が降っていることだよ」 この歌は、一番最初に覚えた歌でした。また、誰が取るかで一番盛り上がる歌でもあります。上級者になるとわざと とらないんだけど(笑)それだけ有名な歌なのか・・・それとも我が家だけなのか。この歌の「田子の浦」は 現在の地名とは少し違うようだけど、一般に静岡県の駿河湾をさすので、地元の歌なのです。。。
「宮中の階(はし)が霜で白いのを見るともう夜もふけてしまったのだなぁ」 「かささぎ」という鳥は七夕伝説で天の川に翼を重ねて橋となり、織女を牽牛の元へと橋渡ししたとされていることから、 宮中の階段をその「かささぎの橋」と見立てて詠んだ歌です。静まり返った宮中、どこか幻想的な雰囲気で 憧れてしまいました。
「桜の花はむだに色あせてしまったものだ。春の長雨の間に。そして、わたくし自身の容姿も、 すっかり衰えてしまいました、ぼんやりと物思いにしている間に。」 あの美人の誉れ高い小野小町の有名な歌です。この歌を読んだとき、私はなんだかショックでした。 女盛りの美しさというのは、桜の開花のようにあっけなくはかないものなのかなと。 経歴不祥で伝説の方が多い人だから、この歌も 小町何歳の頃に詠んだ歌なのかわからないけど、晩年の歌ととるのは、なんだか悲しすぎるから。 花の色は はかないものだから、いつまでも輝けるよう努力したい・・・そう前向きにとらえています。
「吹くやいなや秋の草木が荒れて枯れてしまうので、なるほど山風を嵐というのだろう」 これは、漢字の「山」と「風」の字を上下にくっつけると「嵐」になるという言葉の遊びです。 百人一首をしているときは下の句はすべてひらがなだったので気がつかなかったので、 漢字で書いてあるのを読んでみつけたときは、感動でした。
「あて推量に折るのならば折ってみましょうか。初霜の白さで見分けられないような白菊の花を」 初霜の冷ややかだが汚れないイメーシと、白菊のかれんな花びらのイメージがうまく重なって 純白の美しさが強調されていて、「白菊の花」というのがなんともいえず心に響いてくる歌です。
「日の光が穏やかにさしている春の日に、どうして落ち着いた心もなく桜の花は散り急ぐのだろう」 この歌は母が好きな歌でしたので、私もすぐに覚えちゃいました。「ひさかたの」というのは 枕詞なのですが、この「ひさかたの光」というところと、「しづ心」というのが私も好きな言葉です。
「約束をかわしたことでした。たがいに涙でぬれた袖をしぼり、末の松山を波が越えないのと同じよう 心変わりしないということを」 この歌は祖母の大好きな歌でした。祖母の名前が「すゑ」で、名字が「松○」だからです。この札だけは 必ず自分が取りたいと、並べる時から、自分の前に置いていました。私も負けじと「ともみ」という 文字を探したけど、見つからなかったです。「友」の字ならあるんだけど、「朋」は・・・論語に出てくる ありがたい文字なんだと、自分に言い聞かせてました。
「初めて逢瀬をとげたあとにつのる心に比べれば、以前の恋心は何も思っていないようなものだ」 実は百首の中でこの歌が一番好きな歌です。ソフトな訳にすると、「ずっと片思いをしていて、ようやく 相手に想いが通じた。本当はうれしいはずなのに、かえって、いろいろ心配なことも多く、 片思いの時以上につらくせつない」って感じです。恋に限らず、こういう気持ちになることって よくあるのではないでしょうか。
「この世にいるのもあとわずかでしょう。あの世へ行く想い出として、もう一度あなたにお逢いしたいものです」 これは、恋大き宮中女房和泉式部の歌で、私が大好きな歌です。自分の一番大切な想い出を持って死んでいけたら・・・ 幸せだと思います。人をうらみながら死んでいくのでは悲しすぎるから。和泉式部は死んでいくとき、 逢いたかったのは誰でしょう。情熱的な恋のお相手、敦道親王でしょうか。(私も敦道親王が好きなのです。)
「ひとしきり降ったにわか雨の露がまだかわかない真木の葉のあたりに、霧が白くたちあがっている秋の夕暮れよ」 「きりたちのぼる あきのゆうぐれ」という部分が好きで、これは必ずとるようにしていました。(もちろん、祖母や母たちのように あらかじめ目の前に置いておくなんてことはしないけど) 村雨、露、真木の葉、霧・・・途切れることなく静かな情景が目の前に浮かんでくるような気がします。そして、 秋の夕暮れと、なんとなく悲しさを残したまま終っているのが印象的です。