恋がはじまったこのグランドに、何もかも残していこうと咲子は決めていた。
今日は、高校の卒業式。午前中いたるところで別れの舞台となった校内も、たそがれ時の今となっては 静かすぎるくらいひっそりとしていた。 咲子はグランドの隅の野球部のベンチに腰掛けながら、恋人の翼郎が来るのを待っていた。
ひとりでグランドをながめているといろんな想い出がよみがえってくる。でも、常にその想い出には 翼郎が共にいた。翼郎とは1年の時に同じクラスだったが、いつ頃からなぜ好きになったか覚えていない。 気がつくといつも翼郎の姿ばかり目で追っていたのである。友達とふざけあっている翼郎、 授業中こっそりと居眠りをきめこんでいる翼郎、お弁当をおいしそうにたいらげ、時には早弁もしちゃう 翼郎、帰りのホームルームが終わるや否や部室にすっ飛んで行く翼郎・・・そんな翼郎はどこにでも いる普通の高校生だった。野球が何よりも好きな坊主頭の高校球児だった。
「あっ」
ふいに後ろから目隠しされた。手の主くらい誰かわかっている。大きくてごつい手、それでいて ぬくもりはやさしくて暖かい。
「もう、翼郎君でしょ、離してってば」
咲子が少し甘えた声で言うと、手の主は咲子の前にあらわれた。やっぱり翼郎だった。
「遅くなってごめん」
「ううん。野球部の送別会、大丈夫だった?」
「どうせ、形だけだから。全員の進路決まったら、またやるしね」
翼郎の学ラン姿も今日で見納めである。どこかいつもと違うと思ったら、上着のボタン全部はずして いて、よく見るとボタンがひとつしかついていない。
「何?その学ラン?」
咲子は言ってしまってからちょっぴり後悔した。卒業の日にボタンがついていない理由なんて聞くほうが 野暮というものだ。
「咲子のために、第二ボタンは残してあるだろ?」
翼郎は咲子の気持ちを知ってか知らずか涼しげに笑った。
「さ、寒いから、早く帰ろっか。」
翼郎は、咲子の手をひっぱろうとした。
「待って」
「え?」
「とりあえず、座って」
翼郎は、言われるままに座った。
「高校で一番想い出の場所はどこ?」
「へ?・・・いきなり、何言いだしてんの」
翼郎は、ちょっとおかしそうに笑った。
「だって、卒業式だもん」
「想い出は、咲子と一緒に勉強した図書館」
「グランドって言うと思った。だから、ここに呼んだのに」
「それ言うなら、一番、青春してたところかな。ここで女の子ひっかけたし」
「何、それ。聞いてないよ」
咲子は、ちょっとむきになって言った。
「ばーか、ひっかかったのは、咲子だろ」
翼郎は咲子の額をつっついた。
「あっ、いじわる」
咲子もわざとすねたふりをした。
そして、お互いに目が合うと、吹き出して笑った。翼郎がそっと咲子の肩を抱きよせた。ふたりの間に静かに時が流れていく。 出会ってからの年月のように。
1年の冬、翼郎は野球部のエースを目指していた。きびしい寒さの中、学校の近くの海岸を ただひたすら走っていた。咲子は、毎日のようにそっと見守っていた。好きな人が好きなものに熱中している 姿を見るのは、それだけで小さな喜びであった。でも、ひとつだけ、気になることがあった。 それは、翼郎と親しそうに話している彩子の姿を時々見かけていたからである。 ふたりが付き合っているという噂は聞いた事がない。でも、彩子と翼郎は 出身中学が同じで、彩子は咲子の知らない翼郎をたくさん知っているのである。
その年のバレンタインデーに咲子はなけなしの勇気をふりしぼって、翼郎にチョコレートを渡した。 翼郎の返事は 「うれしいけど、今は野球のことしか考えられないから」というものだった。それでも、咲子は、 ずっと翼郎への気持ちをあきらめられなかった。 相変わらず、彩子と翼郎のツーショット姿を見かけたが、それでも付き合っているわけでもなさそうだった。 そして、3年の夏、甲子園に出た翼郎が野球部を引退してから、ふたりは付き合いはじめた。 ようやく咲子の想いが通じたのである。が、幸せ気分も、そう長くは続かなかった。
咲子は、ある決心をしていた。しかしそれをどう告げたらいいのだろうか・・・?
「翼郎君、あたし、県立の女子短受かったの知ってるよね。」
「うん、A大受かるんだから、当たり前じゃん」
「あたしの本命、どっちだと思う?」
「本命って?」
「授業料納めた方」
「A大に決まってるだろ」
「どうして、そう思うの?」
「どうしてって・・・そんなの決まってんじゃんか。まさか、短大・・・?」
咲子はうつむいて、うなづいた。
「そんな、ばかな。うそだろ?」
翼郎は咲子の顔をのぞきこんだ。
「ごめんね、あたし、東京へは行かない」
「そんな・・・あんなに勉強したじゃないか。二人で絶対A大に合格するんだって」
「だから、合格できたでしょ」
「ああ、そうだよ。二人で受けに行って、発表見に行って、受かったってあんなに喜んだじゃないか」
「翼郎君が、先に行かないって言い出したのに」
「・・・俺は、もともとA大は記念受験だったから。咲子はA大行くのが夢だったんだろ」
「ううん、ホントは、A大に合格するのがあたしの夢だった。・・・それも違うかも。翼郎君と同じ夢を 見るのがあたしの夢だったのかも」
「なんなんだ、それ。わかんないな」
翼郎は、足元にあった石ころを蹴った。かなりイライラしているようだ。
「翼郎君のこと、ずっと好きだった。・・・ずっと好きでいてよかった」
咲子は目をそらしてはいけないと思って、まっすぐ翼郎をみつめた。
「でも、もう、終わりなの。あたしは、東京へは行かれないから」
「A大受かったのに行かないなんて変わり者は俺だけだと思った。」
「あの、夏の日。初めていろいろ話したね。翼郎君の家が神社だって初めて知った。家の神社を守らないと いけないって言ったでしょ。あたしも、まったく同じよ。うちの旅館守らないと」
翼郎ははっとした。翼郎の家は、代々、神主の家系で、翼郎も、高校を卒業したら神主になるために 資格のとれる大学に通うことになっていた。翼郎の成績では、勉強しなくても大学に入れる。 だが、勝ち気な性格の翼郎はそれに甘んじることなく勉強して、自分の実力を試したいと思い、 難関であるA大受験合格を目指したのである。
「うちの旅館なんて、海のシーズン以外はほとんど観光客なんて来ないような小さな旅館だけど。 でも、あたしの家だから、一人娘のあたしが継がないと。・・・それを教えてくれたのは、翼郎君だった。」
「東京行って大学卒業して帰ってきたって遅くないじゃんか」
「行くつもりだったの。小さい頃から、いつか家を出たいってそう思ってた。 でも、旅館継ぐんだって決めたら、東京行く必要ないなって思ったの。」
「だったらなぜ・・・」
「・・・翼郎君が甲子園の夢を追いかけていたとき、あたしには何もできなかった。 それが悔しくて、今度こそ、同じ夢を見たいって思ったの。 翼郎君がA大受けるって言ったから、あたしも受けようと思った。そして、翼郎君の生き方、 素敵だと思ったから・・・あたしも、決心がついたの」
咲子が思っていた以上に、翼郎は、ショックを受けたようである。
「離れていたって、俺の気持ちは変わらない」
「ありがとう。うれしい。でも、あたしは、もう、翼郎君の夢は追わないから。 認めるってことは、追わないってことだから。」
「待っていてもくれないのか?」
翼郎は、咲子の手をとり、いとしそうに両手で包みこんだ。
咲子は、そっと、手を離し、左手の小指を翼郎の小指とからめ、
「指きりげんまん、うそついたら」
と歌い始めたかと思うと、急に指を離した。
「ね、約束できないでしょ、何ひとつ・・・」
我慢していた想いがとうとう涙になってこみあげてきた。いつのまにか、日も暮れている。もう、涙がでてきたとしても、気づかれまい。
終らない想いに涙の封印が押されていく。
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