喫茶店 ピピピ・・・。 杏子は急いで、腕時計の小さなアラーム音を止めた。 時計を見ると、午後2時20分。 今頃、東京駅では、佳樹を乗せたはずの新幹線が発車したことであろう。 柚子は、佳樹にちゃんと会えただろうか・・・。もう、杏子には関係のないことだった。 あとは、佳樹の自由にさせてあげよう。 杏子は、「終った」と思った。恋とはいえない恋のひとつが終ったのだ。
そして、今、もうひとつの、恋を終らせるために、この喫茶店で待ち合わせを している。初対面の彼女にわかりやすいように、ガラス張りの窓側に座っていた。 目印に一眼レフをテーブルに置いておく。
杏子は、バッグから、一通の手紙を取り出した。彼女から会いたいという手紙をもらい、 こうして会うまでに、約2年もかかってしまった。先日、恐る恐る手紙に書いてあった 電話番号に電話すると、彼女は、最初、怪訝そうだったが、すぐ思い出したらしく、会いましょうって 言ってくれた。2年前とちっともかわっていませんからと笑っていた。
2年前・・・一枚の写真が同封されていた。スキー場で、7.8人の男女が映っている写真。 その中に、彼女はいた。佳樹も、そして暁彦も。佳樹の隣に映っているのが彼女だと言っていた。 そして、たぶん、一番端にいるのが、あの娘(こ)であろう。 おとなしそうで、それでいて、芯の強そうな印象だ。高校時代、写真部だった杏子は、よく野球部エースの暁彦を撮影していた。それなのに、最後の写真が こんなばかちょんカメラで撮った集合写真一枚だなんて悲しすぎる、かつての、杏子は、 その写真から目をそらしていた。だが、今なら、まっすぐに写真を見ることができる。
「杏子さん・・・ですね?」
女性のやさしい声がして、杏子は、顔をあげた。ほんとうに、写真から抜け出したかのように、 目の前には彼女がたっていた。
杏子も、思わず立ち上がった。
「咲子さん?」
「はい。はじめまして」
「こちらこそ、はじめまして」
咲子が頭を下げたので、杏子もあわてて頭を下げた。咲子の後からくっついてきたウエーターが軽く 咳払いをしたので、ふたりはそのまま席に座った。
咲子がオーダーし、杏子も追加オーダーすると、安心したようにウエーターは行ってしまった。
「待ち合わせだけで、出てっちゃう客が多いのかしら?」
そういって、咲子は、笑っていた。人見知りのしない、明るい性格のようで、杏子は安心した。
でも、いざ、咲子に会ってみると、なんといって切り出したらいいかわからなかった。
「卒業、おめでとうございます」
最初に話しはじめたのは、咲子だった。
「え、ありがとう。」
なんだか、杏子の方が、緊張してしまう。
「高林くんから聞きました。杏子さん、卒業したら、ニューヨークに行くって。」
「ええ、まあね。・・・佳樹とはまだ連絡取り合ってるの?」
「連絡取り合ってるっていっても、年賀状とか、暑中見舞いとか、そんな感じですよ。でも、最近の大学生に しては、ずいぶんマメな人ですよね」
咲子は、相変わらず、にこにこしていて、女性から見ても、かわいらしかった。
そんな咲子を見ていると、もう、過去のことはどうでもいいような気もしてくる。でも、ちゃんと、 断ち切るためには、つらいけど、咲子にもあの場あの時に戻ってもらわねばならない。
「それは、あなただから・・・だと思う。佳樹、言ってたもの。咲子さんの気持ちが、よくわかるって。・・・ お互いに、大切な親友を失った者同士だからって。」
「そうですね。あの時は、ずいぶん、高林くんに、助けられたような気がする。」
だんだん、咲子からも笑顔が消えていく。
「この店ね、暁彦がずっとバイトしてた店なの」
「そうだったんですか?雑誌にも時々出てきますよね」
「一度全面的に改装したのよ。それから、ドラマのロケで使われて、人気になったみたい。昔は、 普通の喫茶店だったのにね。暁彦がいた頃は。ここが、暁彦と佳樹とあたしの溜まり場だった。 でも、暁彦がいなくなってからは、ずっと来ることができなかった。だから、かえって、これでよかったのかなって」
「これでよかった・・・?」
「改装しちゃってってこと。最後に暁彦に会ったのは、・・・この喫茶店だったから」
そういうと、杏子は、運ばれてきたばかりのコーヒーを口に持っていく。
「コーヒーの味も変わっちゃってる」
杏子は、淋しそうに言った。
「想い出が、どんどんなくなっていくんですね」
咲子もコーヒーを口にした。
「2年の冬休みのことだったわ。あたしは、その頃、バイトでカメラマンのアシスタントをしてたんだけど、 先生に気に入られて、一緒にニューヨークへ連れてってもらえることになって。暁彦と佳樹は、 信州のスキー場でバイトするって言って。で、ここで、3人で会ったのが最後だった」
杏子は、そう言いながら、スプーンでコーヒーを何度も何度も、意味もなくかき混ぜている。
「あたしと、澄香は、会社の同僚でした。スキーに行こうって言い出したのは、別の子で。 澄香は最初、行かないって言ってたんです。・・・だけど、ある日突然行くって言い出して。まさか、あんな こと考えてたなんて思わなかった。」
咲子は、思い出してつらくなったのか、涙ぐみながら話しはじめた。杏子は、澄香の名前が出たとき、びくっとした。 もう、冷静でいられると思ったけど、やっぱり、 あの娘(こ)の名前を聞くのはつらい。暁彦と心中した澄香・・・。
「あたしたち、ほんとに、高林くん達とは初対面だったんですよ。澄香だって、はじめて会ったはず。だから、 ・・・あれは、事故なんです。心中なんかじゃないです。 それなのに、マスコミは、おもしろおかしく書き立てて。」
咲子は、悔しそうに言った。
「大学生の男女、スキー場で妊娠を苦に無理心中。」
杏子が、淡々と言った。
「あれは、デタラメです。大学生の男女っていうのからして、 間違ってるじゃないですか。澄香はOLなんだから。あたしたちも、次から次へと事実を聞かされて、 ショックでした。でも、あとから考えても、 絶対、おかしいんです。確かに澄香は妊娠してたようです。でも、相手が暁彦くんなわけない。 澄香はきっと、妊娠したことに気づいて、スキーに行かないって言ってたんです。でも、死を 覚悟してやっぱりスキーに行くって。それに気づいてあげられなかったあたしたちも 悪いけど。でも、澄香をあそこまで追いつめた本人は・・・とうとう、現れなかった。」
咲子は、本当に悔しそうに言った。
「暁彦は、巻き込まれたと?」
「暁彦くんに最後に会ったのは、大浴場へむかっている時でした。あれっていうような顔をして、 『外行くんじゃないの?』って聞いてきたんです。誰かが『寒いから行くわけないでしょ』って笑って 答えると、ちょっと、考えこんで、『澄香ちゃんは?』って言ったから、『部屋にいる』 って答えると、あわてて走って行っちゃいました。『何、あれ?あやしいね』って みんなで冗談言ってました。でも、今思うと、暁彦くんは、澄香が外に行ったのを 知ってたんだと思います。」
咲子は、きっぱりと言った。もう何度も何度も考えていたことなのであろう。
「暁彦くんは、澄香を助けに行って、助けられなかったんです。澄香は自殺する気だったかもしれないけど、 暁彦くんは、事故だったんです」
「あたしも、そう思いたい・・・」
杏子は、そう言って、写真をみつめた。
「澄香が亡くなったあと、澄香の部屋中を探しました。相手が誰であるかつきとめるために。 でも、みつからなかった。あきらめかけていたある日、ようやくみつけたんです」
咲子はそう言いながら、バッグからフロッピーを取り出して、杏子に差し出した。
「これは・・・?」
杏子は手にとってながめた。
「会社のあたしのフロッピーケースに混ざっていたんです。そのミッキーのラベル、もしかしてって思いました。 澄香は、ディズニーが大好きだったんです。いそいで中を見てみたら、杏子の日記だったんです。杏子は遺書の かわりに、あたしにこのフロッピーをたくしていたんです。」
「えっ? 日記があったの?」
「相手は、澄香と同じ経理課の先輩でした。部長と組んで、いろいろ不正をしてたんですね。 部長の娘と結婚する予定だったらしい。それを知らずに、澄香はその人と付き合っていたんです。 その人からしたら、澄香が不正に気づいているんじゃないかと思ったのだろうけど、 高校出たばかりの澄香にはそんなことわかるはずがなかった。で、有頂天になってたんです」
「そのこと、会社に言ったの?」
「いいえ。言おうと思ったけど、やめました。・・・言ったって、どうにもならないんだから。 言って、なんとかなるくらいなら、澄香は死を選びませんでした。」
「そうね。」
「それに、死の直前、澄香は幸せだったのではって思ったんです。暁彦くんに助けにきてもらえて。 死んでいく前に、人の優しさにつつまれて死ぬことができたんだから。澄香と暁彦くんは、手をつなぎながら 死んでいたそうです。きっと、暁彦くんは澄香の心を自殺から救えたんだと思います。その後に、何らかの事故で・・・体までは救えなかったんです。」
咲子の話す言葉が、杏子から、だんだん遠のいていく。
「今頃、天国で、澄香は暁彦くんと、そして、おなかにいた赤ちゃんと3人で幸せに暮らしているんじゃないかなって思ったんです」
杏子は、ぼんやりと、窓の外をゆきかう人々をながめていた。
都会の雑踏の中で幸せそうによりそう見知らぬ親子の姿が、暁彦の微笑み と重なっていく。
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